09.予期せぬ事態
推しの登場で喜び一杯胸いっぱいだけれど、ラングラン侯爵の前でニヤニヤするわけにはいかない。
ここは我慢だと自分に言い聞かせて、淑女の仮面を貼り付けてその場をやり過ごす。
「陛下からお誘いいただけて光栄です。もちろんですとお伝えください」
本当は拳を握りしめてこの溢れんばかりの喜びを噛み締めたいところだけど、今は我慢よ。
ラングラン侯爵がここから立ち去ったら、ガッツポーズしよう。
「かしこまりました。陛下にしかとお伝えしますね」
「よろしくお願いいたします」
「それでは、ファビウス侯爵夫人がお手隙の頃合いを見てファビウス侯爵が迎えにいらっしゃいますので、お待ちください」
「えっ?! 夫がですか?!」
「はい。ちょうど今、陛下と一緒に観劇しているところですよ」
もう一度客席を見ると、アロイスの隣にノエルが座っている。
先ほどはアロイスの存在に気を取られていて、気づかなかったわ。
(アロイスの隣に座るなんて羨ましいわ!)
ノエルに招待状を渡していたし、学園祭に来ると聞いていたけれど、アロイスと一緒に見て回るとは言っていなかった。
私に内緒でアロイスと楽しい時間を過ごすなんて、抜け駆けもいいところよ。
帰りの馬車の中で、しっかりと問い詰めないといけないわね。
お茶会の返事を聞いたラングラン侯爵が舞台袖から出ていき、やがて演劇が始まる鐘が鳴った。
客席の魔法灯がふっと消えて、暗闇が広がる。それに相反するように、舞台の上の魔法灯は輝きを増した。
(演奏が始まったわね。いよいよだわ)
オーケストラピットに控える生徒たちが楽器を奏して、のびのびとした旋律が会場に響き渡ると共に幕が上がる。
すると、小屋をイメージした背景が現れ、魔女に扮したリアが歌いながら舞台の中央に現れる。
「さあ、今日はお師匠様に言われた通り、魔法薬を作るわよ!」
そう言い、大道具である大釜の前に立って歌いながら大釜の中身をかき混ぜる。
練習の時と比べると、リラックスして演技ができているから安心した。
(さてさて、イセニックはどうかしら?)
見守っていると、いつもより柔らかな表情のイセニックが現れて、リアに話しかける。
表情が変わると別人のようで、思わず食い入るように見つめてしまう。
「やあ、魔女さん。少しいいかな?」
「あら、お客様なんて珍しい。私に何か用?」
リアとイセニックは軽やかに踊り、ダンスパートが終わると舞台袖に戻ってきた。
「二人とも、お疲れ様。喉にいい紅茶を置いているから、好きなだけ飲んでね」
私がコップに入れた紅茶を手渡すと、二人ともあっという間に飲み干してしまった。緊張して喉がカラカラになっていたようね。
それから演技は順調に進み、リアとイセニックが扮する魔女と異国の王子が交流を深めていく。
王子は自身の身分を明かし、魔女を自分の国に連れて帰ろうと、魔女に告白した。
そんな二人の仲を邪魔する悪い精霊役のバージルが現れて、二人を魔法で迷路に閉じ込めてしまった。
というのも、悪い精霊は魔女に惚れており、彼女を自分のものにしたい……という設定なのだ。
「がははははっ! 魔女をこの森から連れ出したら、この国を滅ぼしてやる。それでもいいのならこの迷路から出ていくがいい!」
バージルの渾身の悪役面が様になっていたのか、客席から子どもの鳴き声が聞こえてきた。
(ああっ! バージルがちょっとだけ傷ついた顔をしているわ!)
きっと、子どもに泣かれてショックを受けているに違いない。
後でバージルを励まそう。
(それにしても、みんないい演技ができていて安心したわ。練習の成果を発揮できているわね)
感慨深く思いながら見ていると、舞台の幕をぎゅっと握りしめて縮こまっているエリシャの姿が見えた。
「ミュラーさん、緊張しているわね」
「ひぇっ?!」
声をかけると、エリシャがその場で飛び上がってしまった。
「急に声をかけてごめんなさい」
「い、いいえ! わたくしが緊張し過ぎているだけですので!」
そうフォローしてくれている間も、エリシャの体は小刻みに震えていて。
「わたくし、どう頑張っても人前で演技をすることが苦手で……歌うことはできるのに、おかしいですよね」
「あら、それなら、歌に集中するといいわ。あなたが演じる役に合わせて歌うの」
エリシャが演じるのは、リアとイセニックを手助けしてくれる善良な精霊だ。
「魔女と異国の王子を幸せにしてあげたいと願いながら歌ってみたらどうかしら?」
「それなら……できる気がします!」
「ええ、ミュラーさんならきっとできるわ」
やがてバージルのソロパートが終わり、リアとイセニックが再び現れる。
二人はおどろおどろしい森の背景を背に手を取り合い、見つめ合った。
「私はこの森に残るから、あなただけは自分の国へ帰って」
リアこと魔女の言葉に、イセニックこと異国の王子は首を横に振る。
「いいや、君をこんな危険な場所に置いて帰れない!」
そんな二人の前に、善良な精霊に扮するエリシャが現れた。
白色のさらりとした生地のドレスを身に纏うエリシャが魔法灯に照らされると様になっていて、本当に精霊のようだ。
エリシャはゆったりとした足取りでリアとイセニックに歩み寄ると、その場で歌い始めた。
清涼な歌声が会場に響き、感嘆の溜息があちこちから聞こえる。
「うんうん、いい感じね」
エリシャの歌声に聞き惚れていると、足元にいるジルが不意に尻尾で私の手を叩いてきた。
「小娘、またあれがいるぞ」
「あれって、何?」
「あの黒い影だ! オドオドしているガキんちょの近くにいる!」
「えっ?!」
ジルの視線の先にはエリシャがいて。
彼女の足元にある影から、黒い影が出てきてゆらりと揺れた。