第三十五話
その名に思わず肩をつかんでしまうと、リディアはぽろぽろと涙をこぼした。
ハッとして肩から手を離し、リディアの背中に手を添えて支える。
「マリベルがどうしたの?」
「マリベルちゃんがっ、ご令嬢たちに連れていかれちゃったんです!
あたしっ、なんにもできなくて……!」
しゃくりあげながらのリディアの懸命な説明によるとこうだ。
マリベルはオズワルド殿下から「こちらはもう大丈夫ですから、どうぞ楽しんできてください」と言われ、壇上から降りてリディアは合流し、開会を待っていた。
すると、3人のご令嬢方に囲まれ、「ちょっと話があるのだけど」とマリベルをひっぱっていこうとした。
引き留めようとしたリディアに対して、ご令嬢方はこう言い放った。
「余計なことをしたら、あなたのお家はどうなるかわかりませんわよ。
よろしくって?」
いわゆる成金の下級貴族であるリディアは、非常に弱い立場にある。特にリディアの実家であるシパーリ家は、上級貴族に向けた商売で成り上がってきた貴族だ。もし貴族たちに目をつけられたら、実家の商売に差し障りかねない。
家族を思い固まってしまったリディアに、令嬢たちは嘲笑うように笑みをこぼすと、マリベルを連れて立ち去った――と。
「あたし……なんにもできなくて……」
繰り返しながらリディアは泣いている。
リディアの立場では、その場で抵抗できなかったのは仕方ないことだ。
それで、助けてくれる誰かを探していたのだろう。
「辛かったわね。でももう大丈夫よ」
リディアをなだめながら、わたくしは考えを巡らせる。
この展開は――『ナナハナ』のイベント通りだ。
ダンスパーティー中に令嬢に呼び出され、ホールの真ん中でいじめられるヒロイン。
イベントのことはちゃんと分かっていた。だけど、起こらないと油断していた。
だって、マリベルを呼び出す令嬢って、悪役令嬢なんだもの。
わたくしさえ大人しくしていれば大丈夫と、勝手に思い込んでいた。でも、リディアの言う通りなら、わたくし以外の誰かがマリベルに危害を加えようとしているみたい。
どういうことなの? わたくし以外に誰が、マリベルを……?
ふいに腕に痛みが走って、わたくしは思考を中断した。
リディアがわたくしの腕に痛いくらいすがりながら泣いている。
「シビル様っ、お願いです、マリベルちゃんを助けてください!」
「えっ、わたくし!?」
思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。
だって、このイベントは攻略対象がマリベルを助けることになっている。
わたくしの出る幕はないのよ。
…⋯なんてことはリディアには言えないんだけど。前世の記憶のことはルチア以外には言っていないし、到底信じてもらえるとは思えない。
リディアはパニックになっているようだし、「他の人が助けるから大丈夫よ」なんて言っても納得できないだろう。
わたくしのことをひどい姉だと思うくらいなら別にいいけれど、ヤケになって自分から飛び込んで行ったりしたら逆にリディアが危ないわ。
「……わ、分かったわ。教えてくれてありがとう、リディアさん。
わたくしが行くから安心なさい。あなたはここで休んでいるのよ、いいわね?」
「でもっ! あ、あたしも……!!」
「あなたはだめ。わたくしに任せなさい。
それとも、こんなふらふらで真っ青な子の手伝いが必要なほど、わたくしは頼りなく見えるのかしら?」
「い……いいえ……」
よし、と頷いてリディアを椅子に座らせ、「とにかくここにいなさい」と言い含める。
水を持たせようとしたけれど、気が抜けたのか力ない様子だった。手も血の気が引いてすごく冷たい。
そんなに恐ろしかったのかしら。――いえ、もしかしたら、マリベルを置いてきてしまった罪悪感にさいなまれているのかもしれない。
このまま一人にしておけないわ。
「ルチア、リディアさんについていてあげて。
わたくしはちょっと様子を見てくるから」
「はい」
こうなったら行くっきゃないわ。どうも『ナナハナ』の展開とはなにか違うみたいだし、どうなっているのか確認しなくちゃ。
意気込んだとき、ホールの真ん中で歓声が湧いたのが聞こえた。
どうやら現場はあそこね。
わたくしは意気込むと、さっそく現場に乗り出す。
歓声が上がったホールには人だかりができていて、中央でなにが起きているのかは分からなかった。
「ちょっと、通してくださる?」
一番外側にいたご令嬢に声をかけると、あっさりと道が割れた。
やっぱりクリスタル公爵令嬢のネームバリューは強いわね。
ずんずんと突き進むと、そこにはマリベルたんが立っていた。
クリーム色の髪はアップにして美しく結い上げられている。わたくしが遊んだ淡いピンク色のドレスが良く似合っていてとっても可愛らしい。これぞヒロインだわ!
すでに見たことのあるわたくしですら見惚れてしまうほどの可愛さ。
でも、そのマリベルたんは困ったように眉を寄せ、俯きがちに目線を落としている。
なぜなら、マリベルたんの目の前に、三人の令嬢が立ちはだかっているからだ。
「……あの子たち、もしかして⋯⋯」
立ちはだかる令嬢たちには見覚えがあった。
たぶん、三人ともわたくしの取り巻きになるはずだった子たちだ。
『ナナハナ』では、悪役令嬢シビルに追随してマリベルたんをいじめる取り巻きが登場した。全員がそこそこの地位のある貴族の令嬢で、シビルにゴマをすって甘い汁をすすっていた女の子たち。あそこにいる三人の令嬢は、その三人にそっくりだ。
行く手を阻まれてオロオロするマリベルたんを見ながら、令嬢たちはクスクスと笑っている。
「……まあ、ご覧になって。平民上がりのくせにあんなに着飾っちゃって。似合わない下品なドレスだこと」
「ほんとね。見ていてこちらの方が恥ずかしいわ。母親みたいに誰かを誘惑しようとしているのではなくって?」
「いやだわ。フォレスター学園の品位が下がっちゃう……」
令嬢たちは言いたい放題言いながらクスクスと笑っている。誰とは名指ししなくても、マリベルの方をちらちらと見ながら話すその内容で周りには伝わっているだろう。
周りの貴族たちは何も言わず、むしろ同調するように笑っている。
『ナナハナ』でもそうだったわ。マリベルを見下している真族が大勢いた。
そして、その筆頭はもちろん――“悪役令嬢シビル・クリスタル”だった。
わたくしは今でこそあそこにはいないけれど、あの場にわたくしが出て行ったら……『ナナハナ』での悪役令嬢のように振る舞ってしまうかもしれない。
わたくしはそんなことはしたくない、でも、わたくしの役割はあくまでも“悪役令嬢”。体が勝手にそのように動いてしまったら?
わたくしの口が勝手に動いて、『ナナハナ』と同じひどいセリフをマリベルに向けて言い放ったら……?
どうなるかが分からない。それが怖い。
わたくしが怖じ気づいたその瞬間、令嬢の一人がはっきりと言い放った。
「あなた、この場にふさわしくないのよ!」
聞き覚えがあるセリフに思わず固まる。
このセリフは……『ナナハナ』でシビルがマリベルに言ったセリフと同じ。
つまり、本来ならわたくしが言うはずだったセリフだ。
なぜ、彼女たちが……?
呆然としかけたわたくしの目に、マリベルの姿が飛び込んできた。
マリベルの瞳から――涙が一粒滑り落ちる。
それを見た瞬間、わたくしの口が勝手に動いていた。




