第一話
その日、クリスタル公爵家はざわめきに満ちていた。
使用人たちが皆、ひそひそとささやき合っている。
「……聞いた?
今日いらっしゃる“お客様”って、シビルお嬢様の“妹”なんですって」
「もしかして、あの愛人との子ども? どうして今になって引き取るのかしら」
「そんなの、お嬢様が黙っていないよ。せっかく最近落ち着いていらしたのに、きっとまた暴れだすぞ」
「11歳になられて少し大人になったと思っていたが、あのシビルお嬢様だもんな……」
ささやき声を遠くで聞きながら、わたくしは玄関ホールへ向かった。
もうすぐ来る“お客様”を出迎えるためだ。
わたくしの心情を知らない使用人たちはひそひそ話を続ける。
「……お嬢様がわざわざ出迎えるなんてありえない。なにかする気だぞ」
「“お客様”が入ってきた瞬間、蹴り飛ばすかもしれないわ」
「来て早々いじめられるなんて、かわいそうに……」
視線を背中に感じながら、わたくしは“お客様”を待った。
そんなわたくしに応えるように、重たい玄関扉がゆっくりと開く。
――そこには、明るいクリーム色のまっすぐな髪をした、ヒスイ色の瞳の少女が立っていた。
顔立ちの整った美少女だが、その美しい容姿とは裏腹に表情は暗く、オドオドとおびえているようだ。
きっとここに来るまでに、わたくしの噂を色々と聞いて来たのだろう。
後ろで使用人たちがささやいているような、ワガママ放題のカンシャク持ちの貴族令嬢だと。
わたくしはヒールを鳴らして少女に近づき、鋭い目つきを少女に向けると、両手を大きく広げた。
少女がビクッと肩を震わせるのと同時に、
「――はじめまして、そして、ようこそ!
わたくしはあなたを歓迎するわ!!」
わたくしは少女――マリベルを、ぎゅっと抱きしめた。
使用人たちが驚く声が聞こえるが気にしない。
存分に堪能してからマリベルから離れ、できるだけ優しそうに見えるよう微笑みを浮かべた。
「ようこそ、クリスタル公爵家へ。
わたくしはシビル・クリスタル。
シビルとか、お姉ちゃんとか、どうぞ好きなように呼んでちょうだい」
「えっ、は、はぃ……」
マリベルは驚きと緊張でカチコチだが、このままにもしておけないので気にせず続ける。
「長旅で疲れているでしょう? あなたのお部屋に案内するわ。
アンナ、ルチア、なにか飲み物を用意して。テレサ、あなたも一緒に来てちょうだい」
「「は、はい」」
使用人たちが慌てて返事をするのを聞きながら、わたくしはマリベルの手をとった。
恐ろしくないように、痛くないように、優しくそっと握って、微笑みかける。
「こっちよ」
マリベルは驚いた表情をしながらも、「はい」と返事をしてくれた。
焦らせないようにゆっくり階段を昇り、マリベルのために用意した部屋に案内する。メイド長のテレサが扉を開けてくれた。
「ここがあなたの部屋よ。
一応一通り準備したけれど、なにか必要なものがあれば遠慮なく言ってちょうだいね」
マリベルはきょろきょろと部屋を見まわし、「あの」とつぶやいた。
「こ、こんなに広くて立派なお部屋……。
わ、わたしが、使ってもいいんですか……?」
「もちろん。あなたのために用意したお部屋だもの。
気に入ってもらえたのなら良かったわ」
マリベルはそっと俯き、ワンピースの裾をぎゅっと握った。
そのワンピースはよれよれで継ぎも当てられていて、生活が苦しかったことがうかがえる。
「お嬢様、お飲み物をお持ちしました」
「ありがとう、ルチア。アンナ、お出ししてあげて」
「は、はいっ!」
マリベルをソファに促して座らせる。メイドのアンナがティーポットから乳白色の液体をカップに注ぐと、湯気と共に甘い香りが立ち上がる。
ルチアがマリベルに一礼してから説明してくれた。
「はちみつを溶かしたホットミルクです」
「あ、ありがとう、ございます……」
マリベルはそっとカップに口を付けた。
真っ白な肌にふっとピンク色が差し込む。
「……おいしい」
「良かったわ」
わたくしが微笑みかけると、マリベルは伏し目がちになりながらも、すこしだけ口角をあげた。
笑った、というには、まだぎこちないけれど。
「今日は疲れているでしょうから、ゆっくり休んでね。
なにか欲しいものや、気になることがあったらテレサに伝えて。簡単なことならアンナでも分かると思うわ。
――そうよね?」
メイド長とメイドに目線をやると、「「もちろんです」」と揃った返事があった。
「こちらはわたくしの侍従のルチア。
基本的にはわたくしと一緒にいるけれど、なにか頼みたいことがあったらお願いしても大丈夫よ」
ルチアが腰を折ってお辞儀する。マリベルは「は、はい」と返事をした。
「では、わたくしは失礼するわ。部屋にいるから、なにかあったら呼んでちょうだいね」
わたくしが立ち上がると、ルチアがさっとわたくしの後ろにつく。
マリベルの部屋を優雅に後にして、マリベルの部屋から少し離れた部屋――自分の部屋を目指す。
ドアを開けて見慣れた私室に滑り込むと、ルチアも後ろから入ってきてドアノブに手をかけた。
ルチアがしっかりとドアを閉める音を聞いてから、わたくしは脱力して思わずうずくまる。
そして、
「マリベルたん、可愛かったああぁぁぁ……!!!!」
全力全霊で最大限、声を絞って、叫んだ。
「シビー、声が大きい。聞こえますよ」
主人を尊敬していないらしいわたくしの侍従は、そう言って迷惑そうに眉をひそめる。
「でもでもっ、ルチア、見た?
あの綺麗な髪、大きくてキラッキラの瞳……!
あんな美少女を前に叫び出さなかったことを誉めてほしいくらいだわ!
はあ、ついにマリベルたんがわたくしの妹になったのね……!」
「床に転がるのはやめてください。ほら、せめてソファにして」
感動で足腰が危ういわたくしを見て、ルチアが呆れたように手をとってソファまで誘導してくれる。
ソファにすがり付きながらわたくしは動悸を整える努力をした。
「ルチア、わたくし上手にできていたわよね?
過度に接触しないよう気を付けたし、おしゃべりも控えめにしたし……。
親切なお姉ちゃんらしく振舞えていたわよね?」
床に転がったせいでめちゃめちゃになったわたくしの髪を整えながら、聡明で冷静な侍従は「そうですね」と頷く。
「初手ハグはどうかと思いますし、そのあとは控えすぎて逆にそっけなく見えましたが……まあ、シビーにしては及第点でしょう」
「だっ、だって、本物が目の前に現れたのよ!? そりゃハグするでしょ!
……でもまずかったと思ったから、そのあとは一生懸命抑えたのよ。それに、これ以上一緒にいたらいつ叫びだすか自分でもわからなかったし……。
初日から嫌われちゃったら今までの苦労が水の泡だもの」
今まで……今日マリベルが我が家に来るまでに、わたくしとルチアがどれほど頑張ったことか。
思い出して思わず涙が潤む。
本当に、頑張って良かったわ……!
「お言葉ですが、苦労はこれからの方が多いのでは?
これからあなたは『悪役令嬢』とやらを演じるのでしょう?」
「わたくしは与えられた役割を全うするだけよ。
それに、マリベルたんといられるなら苦労なんかじゃないわ。
――わたくしは、マリベルたんと少しでも長くいられれば、そのあとは破滅しようが処刑されようが構わないもの」
わたくしはうっとりと目をつぶり、大好きな乙女ゲーム『七色の花束をあなたに』のヒロインを思い浮かべた――。
***
時は約1年前、わたくしの10歳のお誕生日に遡る。
その日のわたくしは、誕生日ですら会いに来ない父に苛立ち、盛大にカンシャクを起こしていた。
そんなわたくしの前で、お茶をこぼしたメイドを叱り飛ばそうとしていたときのことだ。
「も、申し訳ありません……!」
「謝れば済むと思っているの!?」
カンシャクを起こすわたくしとメイドの間にメイド長のテレサが割って入り、慌てて頭を下げる。
「申し訳ございません、お嬢様!
アンナは入ったばかりの新人でして……」
「新人かどうかなんて関係ないわ!
それにあなた、アンナというの!?
あなたにはその名前は相応しくないわ!!
だって、その名前は――」
その名前は、わたくしの名前よ。
そう言いかけて、わたくしは固まった。
――違うわ。わたくしはシビル・クリスタル。アンナという名前ではない。
でも、そう、『アンナ』という名前も――わたくしの名前だった。
わたくし――私の名前は、田中杏菜。
大学を卒業してすぐに就職した会社がドのつくブラック企業で、毎日仕事でクタクタで夜遅く帰ってくる。そんな生活じゃ出会いの時間もなく、恋人もいない。
寂しさを埋めようと乙女ゲームに手を出してみたら、攻略対象よりもヒロインの可愛さに心を射抜かれてしまった。
ヒロインの“マリベル”はみんなを癒す心優しい女の子で、すぐに大好きになった。
マリベルが攻略対象たちに愛されることを喜び、マリベルの恋路を邪魔する悪役令嬢に苛立った。
ただでさえ仕事で削られまくった睡眠時間をさらに削り、食事の時間まで惜しんで乙女ゲームに没頭した。
ついにはゲーム画面のヒロインを眺めながら意識が遠のき、そして――。
「シビルお嬢様!!」
「お嬢様が倒れたぞ!」
そうだわ。そういえば。
あの乙女ゲームの悪役の名前は、“シビル・クリスタル”だった――。
そして――わたくしも意識を失った。
***