76.我が愛馬よ
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「よーし、よしよしよし」
ゆっくりとブラシで、その体毛を撫でていく。
少しずつ整っていく毛並みが、輝きを増していくようだ。
我が愛馬も、目を細め、少しだけくすぐったそうにしている。
ナンシー曰く、ヴェント君が喜んでいる証拠、だそうな。
先程ナンシーと話をしたが、シャーリーの言った通り、愛馬の名前はヴェントであった。誰が名付けたのかすら、分からないのだと言う。
「ヴェントよ。気持ちいいか?」
愛馬は、ぐぐぅ、と低い声で返事をした。良し、という合図と認識しておこう。
ゆっくり、優しく、丁寧にブラッシングをしていく。
愛馬を労わろうと思ってのことだったが……これは、中々楽しいものだ。
とはいえ、自分勝手にならぬよう、ゆっくり、優しく、丁寧に……。
撫でる度に、その姿が変わっていくようで、俺も嬉しくなってくる。
「よし! こんな感じでどうだ、ヴェント」
愛馬は、俺の声に反応して低い声を上げ、正面に居る俺を鼻で突いてきた。
これは、喜んでいるのか?
『もっとやれ』と催促しているのか?
怒っているのか?
まぁ、愛馬の目が活き活きしているので、良しとしておこう。
ブラッシングが終わったら、少し歩かせてくれと言われている。思いっ切り走り回るほどの敷地は無いが、軽く歩かせる場所は、厩舎で用意してある。
ピュテルの町の中にある厩舎には、様々な人が馬を預けている。
預けっぱなしの馬の運動不足を解消するのも、厩舎側の務め、らしい。
そのための運動場を、町が用意したそうな。
いちいち町の外に馬を走らせに行くのは、危険だからであろう。
さて、手綱を付けるための馬具であるハミを、愛馬の口に取り付け、固定する。苦しそうでないかをしっかりと確認して……良し。
「では、行くか。我が愛馬よ」
低くはあるが、いい声で鳴いてくれる。
今日は、愛馬に乗らないが、たっぷり共に歩くとしよう。
馬小屋を出て、歩く、歩く。愛馬の隣をただ歩く。
たまに首を撫でてみる。嬉しそうにするのが分かって、俺も少し嬉しくなる。
響くのは、蹄が土を蹴る音。そして遠くから町の喧騒が。
今、町は賑わっている。
だが俺は、こいつとただ歩いている方が、好きだ。
賑わいも雑踏も、耳に聞こえる程度がちょうど良い。
時折、愛馬が顔を押し付けてくる。
その度に、歩む速度を緩め、撫でる。体毛が手の平を流れ、心地いい。
どれほど、同じ場所をぐるぐる歩いただろうか。
「マルクさーん。ヴェント君のご飯の時間ですよー」
遠くから、ナンシーの声が聞こえてきた。結構な時間歩いていたようだ。
「腹減ったか?」
ぐるる、と低い声で鳴いている。たぶん肯定の声だ。ならば戻ろう。
少々、名残惜しいが……。
馬小屋に戻り、馬具を外した愛馬は、小さく前足を鳴らしながら食事の催促を行っている。やはり腹減りのご様子だ。
「ちょっと待っててくれよ」
俺の言葉に愛馬は、ぶるると低く声を返す。
干し草を、これでもかと容器に入れる。
馬が一回に食べる量は中々多い。
人間の数倍の大きさなのだから、当然と言えば当然か。
干し草がメインで、その他野菜は少しである。今回、人参は一本だ。
『野菜は、食べさせ過ぎないでくださいね』とは、ナンシーの教えだ。
あと、塩も用意しないと。
我が愛馬は、運んだ干し草を口に含んで食べていた。
もしゃり、もしゃりと口が動いている。
「ゆっくりでいいからな」
俺のことなど眼中にないようで、愛馬は食事に夢中だ。
干し草って美味しいのだろうか?
いや、試食をするのは流石に止めておこう。
ん? 愛馬が、何かを訴えるようにこちらをじっと見ている。
干し草に何か……いや、問題は無さそうだ。人参を前に出しても反応はない。
そして、原因が分かる。
水だ。水の用意をしていなかった。
「すまん。≪水≫よ」
少し高い位置にある水入れを動かし、魔法で水を注ぎ入れ、そして外に中身を捨てる。水入れを元の場所に戻し、もう一度――「≪水≫よ」――水を注ぎ入れて完了だ。
「お待たせ。ヴェント」
鼻筋をチョンと触ってみる。
愛馬は俺の行動など気にもしない様子で、水に口を突っ込んでいる。
静かに水が、愛馬の体内に吸い上げられていく。
尻尾がフラフラしているので、喜んではいるのだろう。
食事を、ゆっくり見学する。
時折差し出す人参を齧っては、また干し草へと戻っていく。
単調な動きではあるが、見ていて楽しい。
冒険者の頃は、これほどゆったりとする暇なんて無かった。
時間があっても、それは自分自身の休息に当てなければならなかった。休息ついでにシャーリー達が遊んでくれたのを思い出し、今でも有難く思う。
愛馬は、俺の手から残りの人参を器用に咥え取り、口の中で咀嚼し始める。
干し草は、もう必要ないらしい。
そして、人参を食べ終わると、一鳴きした。
「ごちそうさまって事かな。≪水≫よ」
減った水は、補充しておこう。
「さてと、そろそろ帰るかな」
もうすぐ太陽が赤くなる時間だ。町はまだ騒がしい。
愛馬の首をゆっくり撫でると、ヴェントは鼻で俺を押してきた。かと思うと、馬小屋の奥へと行ってしまった。
何だろう……可愛い奴だ。
「また来るから。な」
愛馬は、もう一鳴きすると、またそっぽを向いてしまった。
うん。用事がなくても来るようにしよう。
では、我が愛馬よ。またな。
「やぁマルクさん。あの子の様子はどうだった?」
「元気で……可愛かったよ」
「そうだろう。あの子は飛び切りの良い子だからね。ヴェント君を可愛いと称するなんてマルクさんも中々見る目がある。そうなんだよ、あの貫禄ある佇まいの中にちょっとだけ見える人懐っこさ。たまらないよねぇ。優しい性格だけじゃ――」
目の前のナンシーが、小麦のような三つ編みを揺らしながら興奮気味に捲し立ててきた。口から出る全てが、ヴェントを褒める内容であった。
すまない。尻の筋肉の美しさの良し悪しは、俺には分からないんだ……。
話すだけで、ナンシーは肩で息をしている。とりあえず――
「水、飲むか?」
ナンシーが口を大きく開けたので、俺はそこに――「≪水≫よ」――水を放り込んでやる。流石に勢いはゆっくりだ。
ナンシーの喉が鳴る。
「ぷぁー。ありがとう、マルクさん」
乙女としてそれでいいのか? と思うが、魔法を使ってこの場で水を出した俺が言えた話ではないな。
「まぁ、いいや。専門家としてヴェントの調子はどう?」
「バッチリ。マルクさんが無茶させるから心配だけど、元気一杯だよ」
「そうか、よかった。出来るだけ無理させないようにしないとな」
「ヴェント君も、応えようって頑張ってるから、私があれこれ言う事じゃないかもしれないけどねー」
我が愛馬の頑張りと、主人である俺が体調に気を配らない事は別問題だ。
どうしても急がねばならない時以外は、気を付けよう。
普段と違う行いをすると、自分に足りない部分が次々と出てくる。
冒険者であった自分が、如何に冒険者の事にしか頭を動かしていなかったかを、突き付けられているようだ。
でもそれは、省みるべき失敗で、心地の良い後悔だ。
「いいや。気を付けるよナンシー」
「そう思うなら、たまに走らせてやってね。私じゃ外には連れて行ってあげられないからさ」
「ああ、約束するよ。ヴェントにな」
ナンシーは、ニカッとひまわりのように笑うと「うん。またねー」と別れの言葉を言い、仕事に戻っていった。
これ以上、彼女の仕事を邪魔するべきではない。
まだ、日は出ている。さて、何処に行くべきか……一つ行きたい場所があった。
行くべき場所が決まったのなら、すぐに行こう。
暇は放っておくと、消えてなくなってしまうから。




