481.硬い枕
俺は今、動けないでいた。
俺の膝の上で、パック先生がぐっすり眠っているからである。
パック先生の耳が、俺の太腿に当たっていた。
俺の膝枕なんて、硬くて眠れないだろうに。
パック先生は、アップルパイを平らげ、茶を合計二杯飲み、俺の差し出した青色ポーションを飲んだ所で、力尽きた。
横に倒れるパック先生の体を押さえながら、自然な形に倒すと、今の膝枕の形になってしまったのだ。
起こす訳にもいかないので……今は、動けない。
幸い今日は、もう用事は無い。
テラさんと狼のまんぷく亭へ行きたいくらいか……まだ、時間はたっぷりある。
それまで、ぼぉーとしていよう。
「≪癒しの水≫」
右手に生み出した、少し冷たい癒しの水を、パック先生のおでこに張り付ける。
薄く、広がるように。疲れが少しでも取れるように、
小さな吐息が、パック先生の口から零れた。
だが、起きてはいない。
本当に、疲れているんだな。
仕事と好奇心と時間を天秤に掛けた結果であろうが、無理をするのは良くない。
一刻も早く、事の解明に乗り出すのは、正しい事だ。
その迅速さが、人を救う事も多い。
それでも、自分自身の体は、労わって欲しいものだ。
研究室に入り込む外光が、既に赤く染まっていた。
パック先生の小さな寝息を聞きながら、俺はただ、ぼぉーとする。
人の頭って案外重いものだと、枕と化した太腿で実感するが、それでも、どこかへ行く気は毛頭ない。
呆けている俺の耳が、扉の前で止まる足音を捉えた。
扉が三度叩かれると共に、聞きなれた声が耳に届く。
「テラじゃ。生きておるか―?」
「生きてますよ」
大声は出さず、普通に返事をする。
テラさんなら、これで十分聞こえているだろう。
「む? マルクも来て……」
自分の口に人差し指を立て、入ってくるテラさんに沈黙を促す。
俺を見るテラさんは、そのふわりと広がる銀の髪を揺らしながら、目をキョトンとさせた。髪からはみ出した長い耳も、ピンと張り、驚きを示している。
そぉっと近付いて来たテラさんは、眠るパック先生を見て、微笑み、頷く。
そしてテラさんは、俺の前のソファに腰を下ろした。
正面で、パック先生を見ているテラさんの愛らしい耳は、ピョコピョコ上下しており、テラさんの内側の感情を表していた。
俺も、テラさんも喋らない。
ただ沈黙の続く中、パック先生の寝息だけが、聞こえていた。
魔工石が灯る研究室の中で、俺とパック先生とテラさんは、淹れ直した茶を飲みながら、ソファに座って話をしていた。
パック先生の隣にはテラさん。二人の前に俺が座っている。
やはり、こっちの方が、落ち着くな。
「あの黒い剣、やっぱり元はダークマターだったよ」
「モルス教が関わっておったからのぅ」
特に意外そうな顔もせず、テラさんは大きく頷いた。
調べて判明する事が大切であるが、パック先生同様『やっぱり』な気分だ。
そして、元がダークマターならば、気になる点が一つ。
「モンスターを引き寄せる力は?」
「今の所は、そんな反応は示してないね。今は、他の人に任せて、私は資料を漁ってる所……私も、あっちを調べたいんだけどね……」
パック先生が茶を飲みながら、遠い目をしている。
黒い剣は、昨日の今日で、もう他の人の手に渡ってしまったのか……。
ダークマター、赤い宝石、黒い剣……パック先生の元に集まった不思議な現物達は、パック先生の手元には残らないらしい。
最近残ったのは、変質の楔と怨嗟の炎くらいか。
「何とも、不憫じゃのぅ」
「元気出してくださいね」
「うん、ありがとう。まぁ仕方が無いのは、分かっているから……事が大きくなると、どうしても私の手に余るからね。一研究者としては、複雑な気分だけど」
学派員一人で背負う事を、組織は許してくれないのだろう。
事が手に負えなくなってからでは遅いので、当然の対応なのかもしれない。
「でも、そんなに大層な……物でしたね」
「炎帝竜を侵し、狂わせる程の代物だから」
パック先生の表情が芳しくない。何か思う所がある様だ。
考えても仕方が無いので、直接聞いてみる事に。
「何か、問題点でも?」
「ちょっとね。あれ、フクロウでも手に負えないかもしれないから」
「む? フィンも白旗を上げたのかえ?」
フィンスティング学派長の事は、良く知らないが、テラさんが信頼を置く人だ。
魔法学派『フクロウの瞳』の長であり、副学派長たるミュール様の上司である。
テラさんの問いに対し、パック先生が首を横に振った。
「研究というよりは、安全確保ですかね。フクロウには、黒い剣を封印出来る人材がいませんから」
「簡単な封印では、危険というわけじゃな」
「恐らく、一度王都へ送る事になるかと」
王都、封印……間接的とはいえ、またモーリアンさんに迷惑を掛けてしまうな。
「ふむ。して、パックや。あの黒い水の精霊との関係性は、どうじゃった?」
「魔力を使った実験で、あの採取した精霊の一部と同じ反応を示したので、同一犯、もしくは二本、三本と黒い剣がある可能性が……考えたく無いですね」
「うむ。あんなものがポンポンあっては、困るのじゃ」
俺は二人の会話を聞きながら、頷き、同意を示しておく。
危険物は、少ないに越したことはない。
が、楽観視も出来ないだろう。情報が足りないのだから。
「パック先生は、暫くこの件の調査を?」
「資料と睨めっこだね。ちゃんとご飯食べて、夜は寝るから安心していいよ」
「当たり前じゃ。全く、世話の掛かる娘っ子じゃのぅ」
にこやかに笑いながら、テラさんが言う。
それを聞いたパック先生は、少し照れた様子で、頬を人刺し指で掻いていた。
流石に俺に膝枕された事は、恥ずかしかったのだろう。
だがそれで、少しでも体調管理に気を使ってくれるならば、それで良い。
「そうして下さい。力と硬い枕で良ければ、いつでも貸しますから」
そう言いながら、俺は自分の太腿を軽く叩いた。
パック先生が、クスッと声を漏らす。
「また今度、借りようかな。全く、おねぇさんを誑かすなんて、悪い子だね」
「カッカッカ。わしも今度借りるとするかのぅ。良いか? マルク」
「こんなので良ければ、いつでも」
笑いながら冗談に乗ってくれる、パック先生とテラさん。
男の俺の硬い膝枕なんて冗談にしかならないが、二人の為なら、いつでも力を貸すのは、冗談ではない。