466.幕間~赤き竜と死神の使者~
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暗闇の中、炎帝竜は体を起こした。
長い首を持ち上げ、胸を張る姿は、見る者に畏怖を抱かせる勇ましさである。
全身を覆う赤き鱗は、並の剣を通さぬ硬質さを持っている。
巨大な体躯にしては、やや細く、長い前足。その先に、鋭い爪。
発達した後ろ脚は、太く、起こした体を支えていた。
先端に行くにつれ、細くなる尾は、長く、苛立つ様に地を叩き、抉る。
背には蝙蝠型の大きな翼が一対。
羽ばたきを待つかの様に、飛翔の出番を待っていた。
炎帝竜を竜たらしめる顔は、この巨大な空洞の出入り口の一つに向いていた。
赤の中でひと際目立つ、黒の二本角の下、鋭い目の中で縦に長く引かれた黒目が、三つの黒い人影を捉えた。
黒い人影や炎帝竜を赤く照らすサラマンダーは、この場に一体も居なかった。
「ようやく来たか。待ちかねたぞ」
低く、心の底から響く声を聞き取れぬ愚か者は、この場には居ない。
その声に反応した三つの人影は、暗闇の中、散開する様に走り出した。
闇夜に目が効く炎帝竜は、長いローブが揺れるのを見た。
炎帝竜の大きな口が、赤く光り燃え滾る炎が、闇の中に灯る。
炎帝竜の首が動く。
口を開いた炎帝竜は、三つの人影を薙ぎ払うように、灼熱の炎を吐き出した。
闇を裂く様に赤い炎が走り、人影の姿を照らした。
黒いローブを目深に被った三人は、そのまま火炎に飲まれる。
三つの断末魔が、空洞に響く。
火炎に飲まれた三人は、膝を突く事も許されず、全身を黒色に染めた。
炎帝竜の吐き出した炎が、消え、空洞は暗闇に包まれた。
炎帝竜が、蝙蝠型の翼を動かし、空を扇いだ。
翼によって、風が生まれる。
風は、立ったまま動きを止めた黒色の死体を、塵へと変え、消し飛ばす。
元からそこに、何も居なかったかのように。
その時、体を起こした炎帝竜を囲うように、地面から紫色の光が立ち昇った。
魔力の光を以て対象を囲い、捕える魔法。
地面から伸び、輝く紫の光に囲まれた炎帝竜は、動じない。
炎帝竜は、己が右後ろ脚に炎を纏わせ、地面を踏みつけた。
瞬時に、炎が地面を伝わり、紫の光を焼く。
その魔力諸共に。
炎帝竜を囲っていた紫の光は、炎へと変わり、炎帝竜を赤く照らし出した。
「我に同じ手が通用すると思ったか。侮るな、ザルバザード」
「≪光≫よ」
男の声と共に、竜が飛び立てるほど高い上方に、光の球体が生まれた。
空洞を照らす光により、炎帝竜と黒いローブを羽織る男の姿が浮かび上がる。
四角い顔の左右に白髪交じりの黒髪を波打たせた男、モルス教大司教ザルバザードは、その右手に、黒い剣を持っていた。
曲線を描く細身の剣は、空洞を照らす魔法の光を吸収するように、揺らめく。
ゆったりと歩くザルバザードが、おもむろに口を開いた。
「久しいな炎帝竜。貴様にとって十年は、昨日の事かもしれんがな」
「我が身をこの地に縫い留め……我が友を見殺しにさせた貴様は……許さん」
「その意思は、代行者には不要。此度こそ、この手で新たなる代行者を――」
ザルバザードの言葉を遮るように、炎帝竜が炎を吐いた。
ザルバザードを、赤き炎が包み込む。
だが、赤の中に佇むザルバザードの、姿が溶けるように消える。
「幻影か」
炎帝竜は、縦に長い黒目と首を動かし、辺りを見回す。
別の場所で揺らめきが起き、ザルバザードが姿を現した。
その左手には、水晶球が一つ。
その中には、赤く光る小さな蜥蜴が封印されていた。
水晶球の中のサラマンダーは、まだ生きている様で、赤い光を放ち続けている。
水晶球を地に落としたザルバザードは、右手に握る黒い剣で、中のサラマンダーごと突き刺した。
割れる封印。
黒い剣に貫かれ、サラマンダーは地に縫い付けられ、悶え、動く。
サラマンダーの赤く光る体が、黒に染まりながら、肥大化し始めた。
「貴様!」
怒声と共に目を見開いた炎帝竜が、動く。
炎帝竜の翼が風を起こし、開いた口から炎を吐く。
赤い炎が迫る前に、ザルバザードは黒い剣をサラマンダーから抜きながら、後方へと跳んだ。下がるザルバザードへ迫る炎が、進む向きを変える。
その全てが、肥大化を進める黒いサラマンダーへと飲み込まれていく。
そして、炎帝竜の炎を吸い込むサラマンダーが、更に大きく姿を変えた。
炎帝竜の半分ほどの、黒く大きな蜥蜴へと。
黒い光を放ちながら、黒いサラマンダーが炎帝竜へ跳ぶ。
「すまん」
飛び掛かって来る相手を迎え撃つべく、炎帝竜は細い前足を動かし、その鋭き爪にて、黒いサラマンダーの頭を切り裂いた。
サラマンダーの身が裂け、その黒が、炎帝竜の前足を染める。
頭から腹まで裂けた黒いサラマンダーは、吹き飛ぶ体をクルリと回し、四本の足で着地した。裂けた体の欠片が、地へ落ち、そこに黒い炎を燃え上がらせる。
裂けたサラマンダーは、休む間もなく、炎帝竜へと誘われる様に襲い掛かる。
炎帝竜は、地を駆ける黒いサラマンダーを、尾で弾き、爪で裂く。
その度に、炎帝竜の体が黒く染まる。
サラマンダーは、裂けた体を物ともせず、動く、動き続ける。
それを見る炎帝竜の瞳は、悲しみに満ちていた。
裂けた体から黒い炎を撒き散らすサラマンダーが、宙を舞う。
炎帝竜は長い首を動かし、飛び掛かるサラマンダーの腹へ噛み付いた。
そのまま大きな口で、サラマンダーを噛み千切る。
黒いサラマンダーは、残る足を痙攣させ、その動きを止めた。
黒く染まった口を開け、炎帝竜は、サラマンダーを解放する。
落ちる黒いサラマンダーの体が砕ける様に散り、空中にて消滅した。
その時、ザルバザードの声が、空洞に響き渡った。
「我が神よ。死の定めに従い、彼の者に祝福の声を。≪死神の誘い≫」
ザルバザードが唱えた呪文は、広がる魔力を魔法へと変えた。
耳を劈く高き音が、空洞に響き渡る。
魔法の音を耳にした瞬間、炎帝竜が大きく口を開き、咆哮を上げた。
翼が自然に裂け、全身の肉が軋み、目が血走る。
炎帝竜が苦痛の咆哮を上げる中、ザルバザードは、炎帝竜へと駆け、進む。
空洞に響いていた死神の声が、消え、静寂が訪れた。
炎帝竜の足から力が抜け、巨大な体が、地に打ち付けられる。
腹が地を鳴らし、尾が、翼が、首が、地面を叩く。
響くのは、地を鳴らす音と、駆けるザルバザードの足音だけだ。
炎帝竜の顔を横目に、ザルバザードは、横たわる巨大な体躯の首元へと走り、黒い剣『淀みの剣』を突き立てた。
曲線を描く刃が、吸い込まれる様に炎帝竜の体へと突き刺さる。
刃の七割ほどを飲み込み、淀みの剣が止まった。
ザルバザードの顔が、歓喜に歪む――瞬間、ザルバザードの体が、赤き炎に包まれた。ザルバザードは、淀みの剣を放し、狂うように踊り始めた。
「それが、我に触れると云う事だ」
「アハハハハ、もう遅い。ここに新たなる代行者が生まれた! 焼け! 人を、国を、太陽を! その赤き炎が、黒に染まるのを楽しみにしているぞ」
「貴様! 我に何を――ぐぅ、おぉぉぉぉぉ」
燃え、塵と化しながら踊るザルバザードの横で、炎帝竜の体が変色し始めた。
淀みの剣から広がる黒が、炎帝竜の体を蝕み、作り替えていく。
赤から黒へ。
「嗚呼、我ら皆、モルスの元へ――」
ザルバザードの言葉は途切れ、その身は、塵一つ残らずに、炎の中に消えた。
この場に残ったのは、大口を開けながら、咆哮を上げる炎帝竜だけであった。
その身全てが、黒に染まった、一体の竜だけが。




