445.淀みの剣と魔法球
広く、暗い、とある一室。
部屋に灯るのは、二本のロウソクの炎のみ。
ロウソクの光は壁に届く事も無く、石の寝台の如き祭壇の上に安置されたダークマターを照らしている。
だが、人の頭蓋ほどのダークマターは、炎の光を吸い込むように、黒く蠢く。
そして、ダークマターの前に、一人の男が佇んでいた。
黒のローブを羽織る年齢四十程に見える男は、白髪交じりの黒髪を波打たせ、左右に広げていた。
男の名は、ザルバザード。モルス教大司教ザルバザードである。
四角く、力強い顔と目をしたザルバザードは、ダークマターを見つめていた。
魔法と魔力感知に長けた者であれば、ザルバザードからダークマターへと魔力が流れ続けている事に、気が付くであろう。
ザルバザードは、魔力の流れを止め、小さく呟いた。
「頃合いか。≪変質せし万象≫」
ザルバザードが呪文を唱えると共に、ダークマターが浮かび上がった。
存在の境界線は曖昧であっても、硬質的であったダークマターが、ザルバザードの目の前で歪んだ。
それは液体のように、形を変え、自在に動き始めた。
ザルバザードは、不定形と化したダークマターを見て、ゆっくりと目を閉じる。
するとその場で不規則に動いていたダークマターが、意思を持った様に、一つの形へと変化し始めた。
横に伸びたダークマターが、姿かたちを定めるかのように、再び硬質化する。
それは、鋭き切先となり、曲線を描く刃となり、細身の剣身となった。
それは、十字の鍔となり、拳二つ半ほどの握りとなり、柄となった。
ザルバザードの前で剣と化したダークマターは、剣身と柄が一体となっている。
今もロウソクの炎を吸収するかのように、黒を湛え、称えていた。
目を開いたザルバザードは、輪郭の定まった黒い剣の柄を握りしめる。
「淀みの剣。これならば、十年前叶わなかった我が願いも、成就するだろう。赤き竜に混沌を……そして、トレニアの意思を。太陽に災いを」
ザルバザードが、淀みの剣を横に振った。
すると、ロウソクの炎が二つとも、フッと消えてしまった。
剣は炎に触れておらず、剣により風が吹いたわけでも無い。
炎が淀みの剣の黒に、吸い込まれる様に、消えた。
暗闇の中、ザルバザードは歩く。
己が目的の為に。
黒竜の目覚めに命を捧げ、モルスの元へと先んじた司祭の為に。
朝食後、三人で茶を飲んでいると、アムがやってきた。
赤い髪も、その表情にも張りがあり、元気である事が、見て取れる。
朝っぱらから美少年顔を作り、爽やかな笑顔を俺に向けていた。
「やぁ、おはよう。マルク」
「おはよう、アム。朝から何か面倒事か?」
取りあえず招き入れ、扉に鍵を掛ける。
その間にアムは、俺への返答はせずに、食堂に入って行ってしまった。
食堂の中で挨拶し合うシャーリー、テラさん、アムの声が聞こえて来る。
俺も、茶の続きを楽しもう。
幸い、アムの分くらいなら、冷やした茶が残っている筈だ。
俺が食堂へ戻ると、アムは既に茶を飲んでいた……アムが素早いのではなく、俺が出迎えている間に、シャーリーが用意したのだろう。
「で? 用件は?」
「用が無いと、来たら駄目なのかい?」
「いつでも来ればいいさ。でも、お前、用が無いと来ないだろ」
「ハハッ、だね」
俺は、シャーリーの目の前、そしてアムの隣に腰を下ろした。
ちなみにテラさんは、シャーリーの横に座っている。
俺は、茶で口を潤し、アムの用事とやらに備えた。さて、何の用事なのやら。
魔導書読みに付き合うぐらいなら、いくらでも付き合うのだが。
「そんなに身構えなくても大丈夫だよ、マルク。ちょっと、あるものを借りに来ただけだからさ」
「借りる? 屋敷にある物で、何か使いたい物でもあるのか?」
母の部屋の魔導書は、アムであれ、貸し出すつもりは無い。
魔石ならば、借りると言わず、好きに持って行ってくれても構わない。
後は、倉庫の使わない武防具、失敗作の魔道具、干し肉、お金ぐらいだな。
お金と干し肉は、絶対に違うな……。
「あるよ。絶氷の棺の魔法球さ」
「駄目だ」
「即答だね」
「前にも言ったろ。欲しくても渡さんと」
絶氷の棺の魔法球は、ミュール様に作って貰った、我が家の家宝である。
たとえアムでも、渡さん。
シャーリーは首を傾げているが、テラさんは、ピクッと反応していた。
テラさんは、あの魔法球の危険性を知っているからだろう。
あの中の魔法を無秩序に発動させたならば、町一つは凍ってしまうであろう危険物だ。まぁ並の魔術師には、動かす事も出来ないだろうけど。
俺にとって大切な物であると同時に、他者に渡せぬ物でもある。
「そうだね。でも言ってただろう? ミネルヴァ様に許可を取れって」
「ん? 許可、取ったのか?」
自分で『無理難題だよ』と言っていなかったか?
俺は、アムがミュール様にお願いすれば、すんなり許可をくれると思っている。
さて、実際はどうだったのか?
それは、目の前で微笑むアムを見れば、聞かずとも分かる。
だがアムの口から、直接聞かねばならない事だ。
「実は、王都で既にね。ドタバタしていて言えなかったのさ」
「あぁ、気遣い、感謝する」
「フッ。変な返しだね」
「ドタバタ、のぅ……」
アムは『ドタバタ』と表現したが、要するに俺に気遣って言えなかったのだ。
そして今も、シャーリーの前ゆえ、言葉を濁してくれている。
テラさんからは、ジトリとした視線が飛んで来た……後で、話しておこう。
だが、それはそれ、これはこれだ。
「でもなぁ……俺もまだ使いたいしなぁ」
「あれ? マルクには、もう必要ないって聞いたよ?」
「まぁ、使わなくても何とかなるけど」
魔法球に魔力を込めると共に、思い出すのがミュール様の姿である。
魔法を放つミュール様は、今でも息遣い一つ憶えている……忘れる訳が無い。
その記憶と直結した魔法球を貸すだけとは言え、この手から離すのか?
正直、御免だ。
「けど、アムも必要だから、借りたいんだよな」
「ここで訓練しても良いけど、毎日来るほどの余裕はないからね。本当ならば、僕も、毎日来たいものだけど」
「ああ、シャーリーの朝食は、美味しいからな」
分かるぞ、アム。
毎朝、屋敷に来れば、シャーリーとテラさんに会えるからな。
それに共に取る朝食は、良い……今日もパンと燻製肉の薄切り、蒸した温野菜と干しブドウ……実に、美味しかった。
ん? シャーリーとテラさんがヒソヒソ話を始めた。
俺を見る視線が、なぜか痛い。
会話の内容が気になるが……今は、アムとの交渉が先である。
「フフッ、そうだね。それで、魔法球、貸してもらえるかな?」
「ちょっと待った……考える」
茶を飲んで、ゆっくり考えよう。
アムが我が家に来て、魔法球を使った絶氷の棺習得訓練を毎日行うとすれば、結局、俺が、魔法球を使う事は出来なくなる。
魔法球による訓練は一日一回しかしてはいけないと、ミュール様から注意を受けている。それは、体調の話ではなく、魔法球側の魔力の問題だ。
それにアム自身が言うように、この屋敷に毎日来る暇はない。
アムも、訓練をするなら毎日継続して行いたいだろう……。
絶氷の棺。
それは母の魔法。テラさん曰く、母が生み出した魔法。
アムにとっては師匠の魔法だ……そうだな、そうだよな。
「分かった。俺も男だ。アムが絶氷の棺を覚えるまで、好きに使ってくれ」
「ありがとう、マルク。そう言ってくれると思っていたよ。君は優しいからね」
アムは、変わらず微笑んでいる。
初めから、俺の答えが分かっていたかのように。
だが、今の答えと優しさが何か関係あるか? まぁ、気にするだけ無駄か。
「アム、ミュール様から注意事項は聞いたか?」
「ああ。魔力を込めるのは一日一回。ゆっくり丁寧に。絶氷の棺は習得まで使わない事。魔法球は人目に触れさせない。体調管理は心掛ける事。だよね」
「よろしい」
問題なし。茶を飲み終えたら、魔法球とは、暫しの別れだ。
しかしミュール様は、アムに対しても、体調管理の注意をするのだな。
「マルク。台座ごと借りても――」
「駄目だ」
「マルクや。あまり意地悪するでない」
テラさんから、やんわりと注意を受けた……だがあれは――
「あれは、俺の大事な物の一つなんです。たとえアムでも、おいそれと渡す訳にはいきません」
「用意したわしが、直に良いと言ってもかえ?」
「ぐぬぬ……」
自然と俺の口から、唸り声に近い音が出ていた。
そう言われたら、断る事は出来なくなってしまう……何と卑劣な手を。
「カッカッカ。アムは、信頼の置ける女子じゃ。貸してやらんか」
「テラさんが、そう言うなら……台座ごと貸すよ。持ってけ、アム」
「僕は、あの台座、素朴で好きだよ」
「そうじゃろう、そうじゃろう。やはりアムは、見る目があるのじゃ」
嗚呼、宝物を二つ同時に失う日が来るとは……アムなら、キッチリ返却してくれるから、別に良いか。
意識を、切り替えねばな。
しかし、アムが絶氷の棺か……想像が湧かないな。
きっと俺より早く、ちゃんと使えるようになるのだろう。
昔みたいに。




