318.急ぎ帰る理由
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棒の先から伸びる糸が、湖の中へ垂れていた。
昔、父さんが言ってたっけ?
釣りをするには、知識と経験、そして我慢強さが必要だ、と。
俺には、釣りの知識も経験も無い。
故に、地面で胡坐をかき、ただ、ぼぉーと揺れ一つ無い湖面を見つめる。
騒ぐ腹を押さえながら、ゆっくりと待つ。
涼やかな風が吹き、水面を小さく揺らした。
良い湖だな……シャーリーと共に来たいものだ。
「ん? どうしたの、お兄ちゃん」
「何でも無いよ。魚、捕まえてやるからな」
何で、シャーリーが居るんだ?
モンスターの跋扈するこんな場所に居たら、危ないだろう。
釣りをしている俺が言えたことでは無いな……糸が引き、棒がしなる。
俺は、喰い付いた獲物を、力任せに引き上げる事にした。
「そいっ」
そして湖面が弾け、柱の如き影が、高く、高く上った。
このつるつるした見た目は、シーサーペントだ。
「お兄ちゃん。これ、食べられる?」
「無理かな」
モンスターは、捌いても喰えない。塵となり、消えるだけだ。
嗚呼、腹が減った。
そう言えば、夕食って食べたっけ……。
目を開けると、知らぬ天井が広がっていた。
上体を起こし、部屋を見回した段階で、状況を理解する。
そうだ。昨日は、カナン村の宿に泊まったのだった。
だが、今の意味不明な夢は……あれ? どんな夢だったっけ? まぁ良いか。
夢は、所詮夢だ。
寝具から抜け出し窓を開けると、涼しい朝の空気が、部屋の中に入り込んだ。
まだ、村を薄明かりが包んでおり、日が刺し込むまでには、時間がある。
涼しい空気が、どこか冷たく感じてしまう。
理由は分かっている。
独りの朝は、久しぶりだ。
シャーリーも、アムも、テラさんも、ガル兄も居ない。誰も居ない朝は、冒険者を止めたあの日まで、遡らなければならない。
昔は、これが当たり前だったのにな……帰るとしよう。
窓を閉め、乱雑に置かれたバックパックを身に着け、腰に剣を差す。
そして、魔石の入った道具袋を背に固定し、俺は、一階へと向かった。
この時間ならば、早く出発する客の為に、主人か女将さんが居るはずだ。
一階に降りると、予想通り声が掛かった。
「おや? マルクさん。眠れませんでしたか?」
「いいえ。ぐっすりと。昨晩は、無理を言ってすみませんでした」
俺が頭を下げると、宿屋の主人は、明るく笑った。
「ハハハ。マルクさんの頼みですから」
「そう言って貰えると、その、助かります。ありがとうございます」
さらっと、お世辞まで入れるとは、商売上手な人だ。
朝食を断り、宿泊代金を支払い、俺をは宿を後にした。
向かうのは裏手の馬小屋だ……馬小屋の主人も、早起きである。
「おはようございます。それと、お世話になりました」
「いえいえ」
そのまま馬小屋の主人に、代金を銀貨で支払い、愛馬の元へと向かう。
馬小屋で、小さく座っていた我が愛馬が、立ち上がった。
もう少し、座る姿を見ていたかったのだが……まぁ良いか。
「遅くなってすまん、ヴェント」
我が愛馬は、ぶるると鳴きながら、俺の体を鼻で突っつく。
それが抗議か、喜びか、俺には判断しかねる行動だ。
ならば、それをどう取るか? 簡単だ。
「よーしよし。今日も走って帰ろうな」
喜びと取り、俺も楽しもう。
愛馬の首筋を撫でながら、全身を観察し、健康状態を調べる。
問題ない。今日も我が愛馬は、元気の様だ。
ハミと鐙の準備を終え、まずは、共に歩く。
愛馬は、手綱を持った俺の側を、指示も無しに歩いてくれる。
街道まで歩き、街道の状態を確認する。
安全を確認し、左足を鐙にかけ、愛馬へと乗る。
高くなった視界が、不思議と心地よい。
「行こう、ヴェント。ハイッ」
俺の声と共に、愛馬が歩き始める。
歩みと共に、ゆっくりと朝日も顔を出し始めた。
街道に分かたれた草原が、光を受けて青々と輝いている。
駆け抜けたい気持ちをを静めながら、手綱を緩め、足で合図を送る。
操り通りに、愛馬が常歩から速歩へと速度を上げた。
軽快に響く足音を聞きながら、周囲を警戒し、愛馬の様子を観察する。
何だろう? 手綱から伝わる感触が『走らせろ』と言っている気がしてしまう。
それは、俺の気持ちかも知れない……もう少し、進んでからな。
俺は、ピュテルの町の中を、疾走していた。
愛馬を愛でるのと、ナンシーへの事情説明に時間を使ってしまった。
間に合え! 間に合え!
屋敷の開け放たれた門を抜け、出入り口の鍵を開け、屋敷へ飛び込む。
「ただいま! 朝食は?」
食堂へ向かった俺が見たのは、お茶を飲むシャーリーとテラさんの姿であった。
卓の上に見えるのは、ティーポットとカップだけである。
横を向いたままのテラさんが、視線だけ俺へ向けた。
ふわりと広がる銀の髪から飛び出した長い耳が、ピコッと動いている。
「無いのじゃ。朝帰り男には、シャーリーの食事は勿体ないからのぅ」
テラさんの『朝帰り男』に反応して、シャーリーが自身の口元を押さえた。
肩口で揃えられた明るい茶の髪が、ゆらゆらと揺れている。
楽しそうに目尻を下げたシャーリーが、言った。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん。フッ、今から用意するから」
「いや、めんど――」
断ろうと思ったが、その言葉を飲み込む。
人の厚意は、素直に受ける方が良い。
「シャーリー、頼む。でも、そのお茶飲んでからで」
「うん」
シャーリーの笑顔は、やはり眩しい。朝に見ると、尚の事、輝いて見える。
俺が、シャーリーの笑顔に癒されていると、テラさんから忠告が飛んだ。
「マルクや、先に風呂に入るのじゃ。着た切りで過ごすのかえ?」
「そうですね、風呂、入ってきます」
御尤もだ。
少なくとも今日は、ポンメルさんの所へは、報告に行かないといけない。
特に、自分の臭いは、分からないからな。
だが、風呂に入る前に、一つ。
「その前に……おはよう、シャーリー、テラさん」
「おはよう、お兄ちゃん」「うむ。おはようなのじゃ」
心地よい声が、重なり、響く……やはり朝は、こうでないとな。
おっと。早く着替えを取ってきて、風呂に入らないと。
テラさんとシャーリーの笑顔を、食堂に置いていくのは、勿体ないが……それは、また後で心に補充しよう。
あっ! 屋敷の鍵を閉め忘れてた。危ない、危ない。




