187.夢から覚めても
読みやすいように全体修正 内容変更なし
『行くよ。マルク』
『か、母さん』
『≪風の羽≫』
俺を抱えた母は、屋根から飛び降りる。
母の周囲を風が包み込む。それと同時に、母が俺の体を放した。
地面に落ちる。当時はそう思った記憶がある。
結果は知っている。母から離れた俺の体は、極端に緩やかに落下し始めた。ふわふわしている気分になって、楽しくなった。
『わぁー。どうなってるの?』
『さぁ、魔力をよく見て』
母の生み出した魔法の風が、俺の周りを取り囲んでいる。
当時はそれすら分からず、ただ魔力がぐるぐるしているな、と思っていた。
自分を包む魔法を見ていると、地に足が付いた。
俺は母の顔を見上げる。
今の自分なら、見下ろすのだろうか? 同じぐらいなのだろうか?
結局、母の背丈を覚えていない事を、夢で知る。
父の顔も、母の顔も、自分で立って、真っ直ぐ見てみたかったな。
『分かった?』
『分かんない。もう一回』
『うん。何回でも飛ぼう。でも私と一緒じゃなきゃ魔法は、駄目だからね』
『うん』
元気の溢れる母に、その元気を返すように俺は声を上げる。
母の金の髪が風に揺れ、柔らかな手が俺の手を包み込む。
こんな夢を見たのは、魔法のおかげだろう。まだ、この続きを見ていたい……。
だが、揺れる体が、意識を夢から引き離していく。
母の姿が歪み。遠くで見守る父の姿も歪む。仕方ないよな……夢なのだから。
「――ちゃん、朝だよ。お兄ちゃん」
ぼんやりした視界の中で、明るい髪が朝日を反射していた。クリッと可愛らしい顔が揺れている。何故、シャーリーは揺れているのだろうか?
あぁ、違う。揺れてるのは俺か。
「おはよう、シャーリー。揺らさないでくれ」
「おはよう、お兄ちゃん。シチュー冷めちゃうよ」
「ああ、すぐに行く。≪癒しの水≫」
上体を起こしながら了承の言葉を伝え、俺は癒しの水を顔へと叩き付けた。
冷たい癒しの水が、顔に張り付き、頭と目を起こしていく。
シャーリーは既に、台所へ向かったようだ。
少しだけ、まだぼんやりしている。息を止めたまま、頭を回す。
何かを見ていたような気がするのだが……夢は夢か。
雲のように姿を変えて、元の形など分からなくなってしまう。
夢なんて、そんなものだ。
膝の上に置かれた、清潔な布で顔を拭う。癒しの水は放っておいても吸収されるのだが、折角シャーリーが用意してくれているのだ。使わねばな。
さて、目が覚めたのだ、急ごう。シチューが待っている。
食堂へ向かう前から既に、匂いが鼻を刺激してくる。
甘い匂いはシチューだ。食欲をそそる豚の匂いもいい。燻製肉だろう。ならば、後はパンと、蒸し野菜もしくは目玉焼きといった献立だろう。
これは、朝から腹が鳴る。
食堂では、いつもの様にテラさんが、ぼぅっと虚空を見つめていた。
トロンと垂れた目と耳が、テラさんの眠気を表している。
「おはよう、テラさん」
「うむ。おはようなのじゃ。今日は、お寝坊さんじゃのぅ」
「もう少し寝てたいような……そんな気分だったのかも?」
「フフ。シャーリーに起こされねば、お昼まで寝ておったかもしれんぞ」
テラさんと、その隣の席には、既に料理が準備されている。
そして、その前の席にも同じく。俺の席は、そちらだ。
「それはそれで、平和でいいじゃないですか」
「駄目だよお兄ちゃん。朝起きるのは、習慣にしないと」
「そうかも。おっ、ありがと」
席に着いた俺の前に、シチューが置かれる。湯気と共に甘い香りが立ち昇る。
廊下で感じたよりも、鮮明だ。
既に皿に盛られた、燻製肉と目玉焼きも朝ごはんに嬉しい。
シャーリーが皿を配り終え。席に着くのを待つ。
二人の笑顔を合図に、言葉を重ねる。
「「「いただきます」」」
もう我慢できない。脳と腹が抗議を上げている。食べろと。
いや、早く食べろと。
まずは……シチューからだろう。シャーリーの言葉を聞いてから、第一印象から決めていた。乳白色の海へ匙を潜らせ、小さな肉と共に掬い上げる。それを口へ。
嗚呼、この野菜から生み出される深い味わいは、リンダさんのシチューだ。
ならば、小さい豆も入っているはず……あった。この豆の食感も良いんだ。
「なんじゃ? マルクが蕩けておるぞ」
「お母さんのシチューだからかな? お兄ちゃん好きだから」
「リンダおばさんのシチューは、体と心に沁みるからな」
昨日の夕食の残りなのだろう。だが、残り物に感謝だ。
パンを千切り、口へと入れると、朝の香りが広がっていく。
ついでにシチューにも少し千切って入れておく。細かく、丁寧に。
「今日は、お兄ちゃんって暇なの?」
「ん? 店の手伝いか? いくぞ」
「ううん。今日は、私も店にいないよ」
「む? 店番は休みかえ?」
聞こうと思っていた言葉が、テラさんの口から出た。
なので言葉を放つ代わりに、燻製肉を口へと入れる。燻製で薄くついた匂いと、豚の油が口の中で主張する。パンも食べろと。なのでパンも一口。
「うん。今日は隣村まで、お届け物」
「ブラン村じゃな。独りで大丈夫かのぅ」
「乗合馬車で向かうから大丈夫だよ。テラさん」
ピュテルの町から別の方角にも、村はある。が、一番近いブラン村が隣村だ。
して、シャーリーは今日、遠出か……よし、決めた。緊急の用が飛んでこなければ、シャーリーと共に行こう。
「シャーリー、一緒に行こう。ヴェントも走らせたいしさ」
「お兄ちゃん。用事は?」
「俺の主体性の無さを知ってるだろ。真っ白だ」
「マルクや。ヴェントは渡さぬぞ」
俺はシチューと、シチューに浮かべたパンを同時に口で味わいながら、テラさんの視線と対峙する。染みたパンが美味い。
しっかりと噛んで、飲み込む。
そして一息吐き、テラさんに提案を持ち掛ける。
「テラさんも時間があれば、一緒に行きませんか?」
「流石に三人乗りは、ヴェントの体に悪いじゃろ」
「そうだよお兄ちゃん。ヴェント君が可哀想だよ」
「いや。俺、走って行くから」
何なら、シャーリーの持っていく荷物も背負って行っても良い。
ヴェントなら、荷物を持たないシャーリーとテラさんなら、二人乗っても大丈夫だろう。それ程、無理はさせずに済むはずだ。
「何故、走るという結論になるのじゃ」
「運動不足解消、かな?」
そう言って、目玉焼きと燻製肉を同時に食べる。
黄身の濃さと豚の濃さ。何故か合うんだよな。
「エヘヘ、お兄ちゃんが良いなら、一緒に行こう」
「うむ。わしも同行しようではないか」
シャーリーの口と目が、弧を描いていた。少しは嬉しそうで何よりだ。
テラさんは、むしろ『付いて行ってやろう』といった雰囲気を出している。長い耳がピョコピョコ動いていなければ、格好もついたのだろうが。
だがテラさんは、こっちの方が可愛らしくて良い。
話も決まったし、シチューを食べる続きといこうか。
テラさんとシャーリーの会話を聞きながら、シチューの美味しさを堪能する。
実に、幸せな朝じゃないか。