1007.マルクの歩む道・後編
手を放してくれないシャーリーと町へ繰り出し、目的地へ向け歩いていると、快晴の空から俺達を狙う――いや、俺の頭を狙う猛禽類の存在に気が付いた。
一層姿勢を正す俺を見てか、シャーリーの瞳がキラリと輝く。
瞬間、俺とシャーリーの予想通り、微かな羽ばたきの音に合わせ、すっと慣れた重みが頭の上に乗った。
重さで分かる……これが愛らしき我が友、白いフクロウであると。
「おはよう。フクロウ……シャーリー。勝手に触っちゃ駄目だぞ」
「そんな失礼な事しないよ。ねー」
そう言いながらも、シャーリーの目は丸くて愛らしいフクロウへと注がれ、空いた手は、わなわなと動き続けていた。
羨望の的であるフクロウは、普段と変わらず「ほぅほぅ」と鳴いている……どこか嬉しそうに聞こえるのは、俺の気のせいだろうか?
まぁ、いいか。
ミュール様を待たせる訳にはいかない。
俺は歩きながら頭の中で言葉を紡ぎ、頭上のフクロウを通じ、フクロウの主であるミュール様へ声を掛けた。
『おはようございます、ミュール様』
「ええ。おはよう、マルク。今日はシャーリーさんとデートかしら?」
ミュール様の涼やかな声が、頭の中で響き渡る。
張りのある声から、ミュール様の機嫌の良さが窺えた。
『みたいなものです』
「フフッ、私の所には来てくれないのね」
『いえ。むしろ今からそちらへ伺おうかと』
ミュール様から返ってきたのは、沈黙という答えであった。
暫く歩いても言葉はなく『なぁフクロウよ、ミュール様どうしたんだ?』と尋ねても、フクロウからも返事は無い。
流石に会う約束もなしに女王の塔へ行くのは、失礼だったかな。
ミュール様もお忙しい方だし、シャーリーには悪いが訪問はまた今度にしよう。
「問題なのは、約束なしに訪れることではありませんよ……昨日の今日なのですから、マルク一人で来るものでしょう」
それは問いではなく、むしろ咎める様な声であった。
どうやらミュール様は、沈黙を保っている間も、フクロウを通じて俺の思考を覗き見ていたらしい。
しかし『昨日の今日』か……考える必要もなく昨日の事が頭に浮かぶ。
確かに戦いの神の話は、ミュール様と二人で話す事だろう。
守護の聖女の話も、当然シャーリーには聞かせられない。
それに、昨日の別れ際の口づけ……思い出すだけで、気恥ずかしさと嬉しさを混ぜ合わせた奇妙な感覚が俺を襲う。
まぁ、一人で会いに行くのが正解だよな……だが、今日は譲れない。
『すみません。昨日、シャーリーと約束しましたから』
「約束、ですか?」
『はい。神の元へと赴く前に『フクロウさんと一緒に帰って来る』と。そして一緒にお茶を飲もう、と』
果たしてミュール様は、俺とシャーリーの約束をどう捉えたのだろうか?
少なくとも、頭の中で「フフフ」と聞こえるミュール様の涼やかな笑声からは、悪い感情は感じなかった。
むしろ、あの整った顔に浮かぶ微笑みが、容易に想像出来る。
出会った頃によく見た作り物の笑みではなく、柔らかで心地よい微笑みを。
「約束は……守らないといけないわね」
『守れる間は……ですので、今から女王の塔へ伺っても宜しいでしょうか?』
「いつでも。マルクとシャーリーさんなら歓迎しますよ」
『あっ。お茶はこちらで。一つミュール様に飲んで欲しいお茶がありまして』
「ウフフ、楽しみ。マルク、シャーリーさんに伝えて……『その手は後ほど』と」
『アハハ、はい』
俺の返事に合わせ、頭の上からフクロウが飛び立つ。
俺はシャーリーと一緒に立ち止まり、青い空へと去る白い影を見送った。
翼を広げた姿は、やはり雄大で格好良いな。
「あーあ、行っちゃった。フクロウさんは何て?」
「歓迎するって。あと伝言が一つ……『その手は後ほど』だってさ」
シャーリーは、先程までわなわなと動かしていた手をスッと背に隠し、俺から目を逸らした。
今更隠しても、ミュール様にはお見通しだぞ、シャーリー。
とは言え、俺もシャーリーと同じ気持ちである。
やはり、ご褒美としてミュール様に頼んで……いや、シャーリーの前だ。
シャーリーの前では、出来る限り格好いい『お兄ちゃん』でいないとな。
「……後でたっぷりフクロウと戯れてくれ、シャーリー」
「なんでちょっと悔しそうなの?」
「悔しくなんかないぞ」
「もぅ、お兄ちゃんも素直に『触らせて』ってフクロウさんに言えばいいのに」
「男心ってのはなぁ、そう簡単じゃないんだ、そう簡単じゃ……」
無言で再び歩き出したシャーリーに歩調を合わせ、女王の塔を目指す。
魔法の茶の準備も、忘れずに。
ここは女王の塔の茶会室。
部屋の中央には皺一つ無い白い布が美しい丸卓が置かれており、その卓の外周には、造りの良い椅子が三脚。
ミュール様、シャーリー、俺と、卓の上で三角を描く様に座っていた。
卓の上には、白の映える空のカップが三つと、卓中央の細い花瓶に活けられた、凍り付いた赤い花が一輪。
普段と変わらぬ茶会の部屋。
普段と違う点は、俺が茶の用意をしている事ぐらいだろう。
「≪自然の息吹≫よ」
呪文を唱え、三つのカップの上に茶を生み出し、注ぎ入れる。
シャーリーはいつも通りだが、ミュール様を見てみると、茶の香りが広がり始めた時から、微かに銀の瞳が揺れていた。
カップの七割ほどで魔法を止め、二人へ飲む様に促す。
「どうぞ、ミュール様。これが今の俺の茶です。シャーリーも」
「いただきます」「うん」
ミュール様をじろじろと見ては居られないので、俺も一口。
うん。少し薄いスッと通る味わいも、もう少し豊かさの欲しい香りも、そして香りから来る柔らかな甘さも、良い感じだ。
俺はこの一杯を、ミュール様に飲んで欲しかった。
母と交友のあった、ミュール様に。
リンダさんが『間違いなくマリアのお茶』と評し、そして『マルクのお茶』と言ってくれた、今の俺の茶を。
はてさてミュール様は、この茶にどんな感想を抱くのだろうか?
ミュール様へ視線を向けると、俺の視線など気にした様子もなく口からカップを離し、美しく流れる目の奥から銀の視線を茶へと注いでいた。
そして一言。
「温かい」
この茶に関して放たれたのは、その一言のみであった。
俺は、茶の感想を促さず、自分のカップを傾け、自分の口を塞ぐ事にした。
今のミュール様を邪魔するほど、俺は無粋な人間じゃないつもりだ。
シャーリーの方へ目を向けると、口元に弧を描いたシャーリーが、俺の意を汲む様に大きく頷いてくれる。
沈黙を促す必要なんて、なかった。
ミュール様が今、何を思っているのか……聞きたい気持ちはある。
けど、その感情も思い出も、ミュール様の心にあればいい……だよね、母さん。
静かなお茶会も、悪くないさ。
女王の塔に広がるのは、冷たさではなく、穏やかな空気。
そのゆったりとした空気は、二度目のおかわりの後に、その様相を変えた。
「フフッ。お茶を飲んでばかりはいられないわね。話をしましょう」
「話、ですか?」
「ええ。昨日は世界を救う大事、ご苦労様でした。そして、助けに来てくれて、ありがとうマルク。あなたが望むなら、どんな願いでも聞き入れましょう」
「不要です。俺は好きで首を突っ込んだだけですから……けど、礼の言葉だけは、確かに受け取っておきます」
ありがとう。
その言葉一つと、こうして一緒に茶を飲めるだけで、もうそれ以上の礼など必要ない。
しかし、ミュール様は俺の言葉を聞くと、冗談めかして笑い始めた。
「ウフフ……残念。神を殺すよりも困難な道を選び、あなたは戦いの神に選ばれたミネルヴァの英雄となったのですよ……マルクが国盗りを望むなら、私のこの力を存分に振るってあげるのに」
「国なんて要りませんから……それに、ミュール様まで『英雄』だなんて言わないで下さい。それはまだ、俺には程遠い言葉ですよ」
「英雄のお兄ちゃん……ちょっと見てみたいかも……」
シャーリーの呟きに、ミュール様の笑みに優しさが生まれる。
俺を揶揄って楽しんでいるな、ミュール様……。
「フフッ、英雄として生きぬのなら、あなたはどう生きるつもりなの?」
「今のままで」
「マルクは、変わらぬ事を願うのね」
出来れば平穏な日々が良いが、別に停滞を望んでいる訳ではない。
その事を口にする前に、シャーリーが否定の言葉を口にした。
「んー。お兄ちゃんはお兄ちゃんのままですけど、結構変わってますよ、フクロウさん」
「シャーリーの言う通り。ミュール様に初めて会った頃の俺は、魔法でお茶を出すような男じゃなかったですよね?」
「そうね……」
カップを掲げる俺を見て、ミュール様が涼やかな笑みを浮かべながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
あの頃を思い出す様に……掲げたカップをそのまま口へと運ぶ俺の脳裏にも、冒険者を辞めた頃の記憶が蘇る。
そう昔でもない筈なのに、迷いに迷っていた自分が酷く懐かしい。
あの頃と今。
根っこはきっと、何も変わっていない。
偏屈で面倒で、自分勝手で危なっかしく……そして、何をしたいのかすら分からない迷子。
今だって、未来の自分の明確な姿なんて、これっぽっちも見えていない。
けど、それでも良いと、今の俺は、俺を肯定できる。
手を繋いでくれる人が居て、共に困難に立ち向かってくれる人が居る。
それに気付けたのなら、後は、手探りだって進んでいける。
大切な人達を助け、守りながら、前へ一歩一歩。
右を見て、左を見て、やっぱり思う。
俺は、幸せ者だ。
茶を一口飲んだミュール様が、目を開き、銀の瞳で俺を見つめている。
俺を見て、ニッコリと太陽よりも眩しく笑うシャーリーが、そこにいる。
二人だけじゃない……あの頃は気付きもしなかった人達が、沢山いる。
この町に居る人も、居ない人も。
戦う人も、戦えない人も。
手で抱えられない程に、沢山の人達が。
「フフッ。そんな顔、確かに昔はしなかったわね」
「ですよねー。えへへ」
ん? 俺の顔を見て、意気投合する二人……。
「えっとミュール様。俺、そんな変な顔してました? なぁ、シャーリー?」
俺の問いに、二人は答えてくれなかった。
二人は互いに視線を交わし、ただ笑い合う。
まぁ、いいか。
明るい声と涼やかな声が卓の上で混ざり合い、俺の耳を癒してくれた。
今は、今を楽しもう。
掴み取った日常を……その至福のひと時を。
疲れた体を引きずりながら、町へ向け、フクロウの敷地を歩く。
今は昼食時には早い時間ゆえに隙間の時間なのか、学び舎の子供達も学派員の人達も姿は見えず、道ががらんと空いていた。
無人の道を、シャーリーと二人、並んで歩く。
「お兄ちゃん。大丈夫?」
「このぐらい、いつもの事だ……問題ない」
そう虚勢を張ってみたものの、少し体が重い。
何故、疲れているのか?
それは、単純にミュール様にみっちりと扱かれたからである。
茶会の終わり際に『これからもご指導宜しく願います、ミュー師匠』と口走った結果が、これである。
まぁ、それはそれで楽しい時間ではあったのだが、それと疲労は別問題である。
ミュール様、やけに張り切ってたなぁ……。
そして、訓練と同時に行われたシャーリーと白いフクロウの戯れ。
そっちにも参加したかったと思ってしまったのは、ミュー師匠には内緒である。
「でもシャーリー。貴重な休みの時間を、俺とミュール様の訓練に付き合って良かったのか?」
「うん。見てて楽しかったよ。それに……えへへぇ、フクロウも可愛かったし」
フクロウの手触りを思い出してか、シャーリーの顔がふにゃと歪み、今にも溶けそうになってしまった。
ちゃんと前を見て歩いているのか心配になった俺は、シャーリーの手を掴んで歩く事にした。
幸せな空想から戻っても、シャーリーは俺の手を振りほどきはしない。
ギュッと掴み返す手が、温かさを俺に伝えてくれる。
「でも、もう何処かに行く時間はないね」
「なら、昼食の買い出しから、そのまま鴨の葱に直行だな」
「お兄ちゃんは休んでていいんだよ」
「ハハハ。俺がこれぐらいでへこたれる様な軟な男じゃないって、シャーリーも知ってるだろ? 買い物だけと言わず、店の手伝いも任せろ」
空いた手でグッと拳を作り、まだまだ付き合う事を主張する。
そんな俺に溜息を吐きながらも、綻ぶシャーリーの顔は、雄弁に嬉しさを物語っていた。
「お兄ちゃん。言ったら聞かないもんね」
「そこが俺の良い所でもあり、悪い所でもある……たぶん」
「アハハ。自信なさげ。さぁ、買い物にしゅっぱーつ」
「おー」
賛同者、俺一名の掛け声に合わせ、シャーリーが弾む様に歩き出す。
繋いだ手が、子供っぽく前後に大きく揺れる。
だがそこに、気恥ずかしさは無かった。
弾むシャーリーの横顔を心に刻みながら、思う。
これからもきっと、俺は戦いの道を歩み続ける……守る為に、生きる為に。
きっといつかは、この手も繋げなくなるだろう。
戦う者に訪れる、死という当然の別離。
だからこそ今は、繋いだ手を離さぬよう、握り締める。
俺が『冒険者』という一つの生き方を投げ捨てても、離さないでいてくれた、この手を。
けど、訪れる未来が『死』だけでない事を、ミュール様が教えてくれた。
そう……そうならない為にも、もっと強くなろう。
モンスターであれ、人であれ、権力であれ、国であれ、神であれ、俺の大事な人達を傷つける全てのものを、払い除ける為に。
たとえ未来が黒い霧に包まれていても、俺が払えばいい。
それが俺の歩みたい道だ……叶うならば、皆と共に。
――ミネルヴァの雄~冒険者を辞めた俺は何をするべきだろうか?~ 完――




