1005.当たり前の日常へ
会話修正
血塗れの服で歩く俺を見て、通りかかった人達が顔をギョッとさせる。
だが彼らは、それが俺であると知ると『なんだ、マルクか』と言わんばかりに息を吐き、変わらぬ日常へと戻っていく。
ちょっとぐらい心配して声を掛けてくれる人が居ても……まぁ、居ないよな。
相変わらずの町を歩き、俺は誰も居ない我が家の扉を開いた。
「ただいま……って、あれ?」
魔工石の灯りが、無人の筈の屋敷の中を照らしていた。
誰か……居る?
考えるよりも早く、軽快な二つの足音が食堂から飛び出してきた。
「お兄――お兄ちゃん!」「やっと帰って来たんだね、マル……」
出迎えに来てくれたシャーリーは、血に塗れた俺の服を見て、その笑顔を驚きへと変えた。
シャーリーの後ろから現れたアムに至っては、爽やかな笑俺を硬直させたまま、俺の名前を呼ぶ途中で絶句してしまっている。
「おーい。大丈夫か? アム」
「それはお兄ちゃんの方だよ……大丈夫だよね?」
「ああ。バッチリ治療済み。じゃなければ、独りで歩いて帰って来ないって……いや、心配かけて、悪い」
こんな格好で帰ってきたら、心配するのは当たり前だ。
少々ばつが悪い俺に対し、シャーリーとアムはクスッと笑い、普段と変わらぬ眩しい笑顔を向けてくれた。
「ううん。お兄ちゃんが元気なら、いいよ……おかえり、お兄ちゃん」
「おかえり、マルク」
「シャーリー、アム。ただいま」
別に数日外出していた訳でもないのに……嗚呼、我が家に帰って来たって感じがする。
『ようやったのぅ』
ふと、幻聴と共に、二人の姿の隣に、今は遠いアルケーの森に居るテラさんの幻が見えた。
横に長い耳を上下させながら笑う、テラさんの姿が。
ただいま、テラさん……取りあえず、一段落したよ。
届かぬ言葉を思う俺の手を、シャーリーが握り、屋敷の奥へと引っ張り始めた。
「ん? どうした?」
「どうしたじゃないよ。まずはお風呂。エヘヘ。久しぶりにお兄ちゃんの背中、ゴシゴシ流しちゃおうかなー」
「あはは、ご冗談を」
「えー。ダメ?」
「駄目。アム。シャーリーの監視を頼む」
「……見張りは、僕に任せておくれ」
おい、その微妙な沈黙は何だ?
まさかお前まで……まっ、そんな訳ないか。
シャーリーは俺を脱衣所へと導くと、ボロボロの服を脱ぐ俺を脱衣所に残し、扉の外から話しかけてきた。
「ねぇ。お兄ちゃん。フクロウさんは?」
「無事だぞ」
「なのに、一緒じゃないんだ」
「ああ。俺には俺の帰る場所があって、ミュール様にはミュール様の帰る場所があるからな」
「エヘヘ」「フフッ」
突如、脱衣所の外から二つの笑い声が聞こえて来た。
俺、そんな、可笑しな事を言っただろうか?
まぁいいか。二人が楽しそうだし。
本当に俺の体に傷が無いかを確かめようとこっそり扉を開けたシャーリーを、俺は手で追い払い、急ぎ浴室へと逃げ込んだ。
「≪水≫よ」
慣れた手つきで湯を浴槽へ張りながら、今日のこれからを考える。
風呂に入って、二人と話して、夕食を食べて、二人を送って……やっぱり俺は、そんな当たり前の日常が好きだ。
今は、ゆっくりしよう。
それに、風呂に入る時は、独り、穏やかでありたい。
ミュール様は今頃、どうしているのかな?
ノワールに怒られるミュール様を想像しながら、俺は手から流れる湯を止めた。
女王の塔にある、丸い卓が一つ置かれたお茶会室。
突如として転移魔法にて現れたミネルヴァを、卓で空のカップを見つめるメリィディーアが待っていた。
転移を知り、顔を上げたメリィディーアの緑玉の瞳と、柔らかに微笑むミネルヴァの銀の瞳が、互いに視線を交え合う。
椅子が倒れるのを厭わず、俄かに立ち上がったメリィディーアは、勢いのままにミネルヴァの胸へと飛び込んだ。
「嗚呼、ミュール。無事で……良かった。良かったぁ」
ミネルヴァは、己が胸に顔を埋める友の背に手を回し、ぎこちなく彼女の緑色に輝く美しい髪を撫でる。
言葉なく、愛おしそうに、ゆっくりと。
ミネルヴァの手を受け入れるメリィディーアの柔らかな声が、茶会室に響いた。
「言いたい事は一杯あったけど、全部吹き飛んじゃった」
「メリィ。何も言わずに行って……ごめんなさい」
「うん…………その代わり、話は、いっっぱい聞かせて貰うからね」
そう言ってメリィディーアは、ミネルヴァの胸から顔を放し、ミネルヴァを見上げながら、口元を猫の様に歪ませた。
ミネルヴァの流麗な目が、自然と優しい弧へと変わる中、お茶会室の中に設置された転移陣が輝きを放つ。
治まる光の中から一歩進み出たのは、片側にまとめた栗色の髪を僅かに揺らし、銀に輝く丸盆の上に三枚の皿を乗せた女性、オリーブであった。
「おかえりなさいませ、ミュール様。お約束通り、タルトをご用意致しました」
「ありがとう、オリーブ。そして、ただいま」
落ち着きを見せるオリーブの瞳の奥が、色鮮やかに揺れている事を、ミネルヴァの瞳は逃さなかった。
それが、ミネルヴァの唇を柔らかに動かす。
「さぁ、三人でお茶にしましょう。≪我が宝をこの手に≫、≪自然の息吹≫よ」
ミネルヴァの言葉一つで、丸卓に椅子が増え、卓の上にカップが現れた。
そして、三つのカップの上、虚空より流れ落ちる茶が、カップの内側に当たり、お茶会室に香気を広げる。
「オリーブさんのタルト、私も好きよ」
「ありがとうございます」
「フフフッ……」
ミネルヴァは、自分の側から離れ、席へと向かうメリィディーアを、配膳を進めるオリーブを見つめ、自身も席につきながら、白と黒のフクロウへ意識を繋げた。
ミネルヴァは、二羽のフクロウへ心の中で呟く。
『ただいま』
ほぅ、ほぅと返るフクロウの穏やかな声を聞きながら、ミネルヴァは茶の満ちたカップを持ち上げた。
二つの視線が見つめている事を知りながらも、ミネルヴァは、ただただ、友との茶会に心を躍らせていた。
氷の女王でもなく、守護の聖女でもない、ミュール・ラ・ディーヌ・ミネルヴァという、一人の人間として。




