1003.大蛇の毒と戦いの神~ミネルヴァの英雄~
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ミュール様の転移魔法に身を任せながら、空間転移を繰り返す神を追う。
俺はただ、炎を宿した剣を戦いの神へ打ち込み続けるだけだ。
時にミュール様と別れ、前後左右の二面攻撃を仕掛けながら、神の武具を次々と破壊し、黒き鎧を纏う肉体に炎の斬撃痕を幾度も刻む。
だが、あと一歩が踏み込めず、深い一撃を打ち込めずに居た。
胸に、腹に、腕に、背に、足に、深紅の炎を宿しながらも、神の動きは弛む事などない。
転移と同時に払った俺の剣と、鉄鞭の如き武具が重なり、鈍く音を立てる。
俺は魔力の足場を生み、着地しながら、間を置かず右肩、右脇腹、身を翻し左脇腹へと連撃を仕掛けた。
剣の音が三度鳴り、神が正面から消える。
場所は、左。剣の距離。
それは、神の振るう鉄鞭の距離でもある。
だが、神は鉄鞭を俺へと振り下ろさなかった。
いや、振り下ろせなかった。
転移先を読み、同時に神の転移先の後方へ転移していたミュール様の氷の鞭が、神の背を打ち据えていたからだ。
鉄鞭を振らんと左腕を上げた姿勢のまま、微動だにしない戦いの神。
俺の魔力を利用したミュール様の魔法であれど、凍結の力が支配出来るのは、ほんの一瞬。
しかし、その一瞬が、接近戦の有利と不利を分ける。
俺は左へと向き直りながら、剣の切っ先を神の首へと潜り込ませた。
首へ引く炎の線が、途中で止まる。
また、届かない。
顔を隠す様に置かれた皮の盾が、俺の剣をこれ以上進ませない。
そして炎を神の肉体へ流し込むよりも早く、英雄の剣を盾が弾き飛ばした。
だが、その代償に、皮の盾が炎に飲まれて消滅する。
盾で隠れていた神の顔が、俺の目に映る。
それは、先程まで無表情を貫いていた神の顔ではなかった。
ミュール様と同じ美しい顔が、愉快そうに、楽しそうに笑っている。
その笑顔が、転移により目の前から消えてなくなる。
俺は急ぎ前へ走り、ミュール様と合流し、神を追った。
空間転移による戦いを続ける中、突如、神の声が頭の中に響き渡る。
「熱い……熱いぞ……もっと滾れ」
それは、俺の炎を見定めに現れた黒き女騎士の声と同じ声であった。
やはり、そう言う事か。
太陽の神殿でタキオンさんが言った『完全に毒に侵された戦いの神』という言葉を、太陽神は否定しなかった。
だが、不敵に笑うだけで、肯定もしなかった。
まだ、神はそこにいる……己が身を犠牲にし、大蛇の毒を消滅させる為に。
幾度の転移に合わせ、炎の剣と神の武具が鳴り響かせ合う中、ふと、神が転移の為に周囲へ生み出していた魔力が、一斉に消滅した。
いや、一カ所だけ残っている。
それは黒の大地。
黒の軍勢とバルザックさん達が戦う戦場から離れた位置。
当然のように神は、そこへ転移した。
ミュール様も状況の変化に合わせてか、十歩も歩けば神に届く距離に転移し、戦いの神と俺達は正面から向き合う事となる。
肉体の至る所を深紅の炎に焼かれながらも、戦いの神は平然としており、持っていた得物を投げ捨てた。
武器を捨てる動きが戦いの放棄ではないと、頭に直接届く神の声と、横へ伸ばした左手に生まれた銀に輝く流麗な細身の剣が、俺に教えている。
「さぁ、我が前に力を示し、人の世の英雄となれ、マルク・バンディウス」
全く……神も人も、誰も彼も、好き勝手な事を言う。
神を殺して世界を救って、英雄になれだって?
でなければ、死ねとでも言いたいのか?
銀の剣を正面へ構えたまま動かぬ神に対し、俺は、つい口走ってしまった。
「この力は、この炎は、俺が守りたい人の為に振るうものだ。神の思惑なんて知った事じゃない」
「ならば、どうする?」
「焼き尽くす」
「それでこそ、我の選んだ男だ」
言葉の終わりと共に動き出す神。
神と同時に前へと駆け、両手に握る英雄の剣を払う。
俺と神。
互いの中間点にて炎の剣と銀の剣が、軌跡を交えさせた。
重い神の斬撃が両手に響き、易々と倒されるつもりがない事を、俺に伝える。
一度始まった戦いは、簡単には止まらない。
黒の世界に描かれた銀線へ、炎の剣を重ねる、重ねる、重ねる。
黒の大地を蹴り、駆け回りながら、接近、離脱を繰り返し、前から横からと神を攻め立てる。
だが、それは見せかけ。
今はまだ、深く攻めるつもりは俺には無かった。
当然、俺が強く攻めぬ訳ぐらい、神も気付いている筈だ。
その、黒の空にて高まる魔力に。
俺は独りで戦っている訳でも、ましてや一騎打ちを受けた訳でもない。
ミュール様を信じ、戦う……俺自身の我が儘の為にも。
今はただ、一合一合加速していく神の剣技に食らいつき、神を逃さぬ様に攻めの姿勢を見せておく。
幾度も振る剣が、銀の剣に阻まれ、幾度も迫る銀の剣を、剣で拒む。
集中する意識の中、止まぬ剣戟の音が何処か遠くに聞こえ始める。
その中でも、ハッキリと聞こえる声が一つあった。
その凛とした声を、聞き逃しはしない。
「≪銀世界≫をここに」
ミュール様の声により生まれたのは、凍り付いた世界であった。
魔法の正体を知るよりも調べるよりも早く、俺は剣の距離へと踏み込みながら、剣の柄から放した左手を、英雄の剣の刃に宿る深紅の炎へ添えた。
左手に炎を移しながら、俺は更に奥へと踏み込む。
触れ合う程に近い距離。
俺は、深紅の炎を宿した左手にありったけの魔力を込め、そっと黒き鎧に包まれた神の腹部へ当てた。
英雄の剣を使わぬこの一撃は、俺のただの我が儘だ。
だからこそ、絶対に成し遂げてみせる。
大丈夫だ。俺になら。出来る。
自分を信じて、皆を信じて、そして、救ってみせる。
「焼き尽くせ」
腹部に当てた深紅の炎全てが、神の中へと入り込んで行く。
濃き深紅の炎が、神の中を駆け巡るのを感じる。
炎全て制御し、焼き尽くす。
神殺しの炎? 違う。
俺の炎が殺すのは、神じゃない。殺すのは、その身を蝕む大蛇の毒だけだ。
凍る世界の中で、神の全身が深紅の炎に包まれた。
神という一点から広がった炎が、黒の大地と空へと広がり、大地に目覚めた大蛇の毒を焼きながら、世界を深紅に染め上げる。
欠片も残しはしない。
深紅の炎が消え、大蛇の毒が消えた世界。
その白に塗り替わった世界は、ある種の殺風景さすら感じる世界であった。
周囲を見回すと、黒の戦士達など何処にもおらず、遠くまで見通しの良い白の世界の中に、無事な皆の姿を見つける事が出来た……良かった。
こちらの無事も報せる為に手を振ると、皆、一斉にこちらへ走り始める。
皆、元気だな……俺が疲れているだけか。
魔力の限りを尽くして大蛇の毒を焼いたせいか、体に力が入らない。
今にも倒れそうな俺を、転移してきたミュール様が、剣を持たぬ左側へと身を寄せ、支えてくれた。
嗚呼、温かい。
「助かります」
「フフッ、呑気……ですが、神はまだ死んでいませんよ」
「はい。殺してませんから」
俺達の前には、銀の剣を白き大地に突き刺し、膝を突く戦いの神が居た。
傷だらけの黒の鎧の下に見える素肌には、傷一つ見て取れない。
顔を上げた戦いの神が、その銀の瞳でギロリと俺を睨む。
ミュール様と同じ顔で睨まれるのは、心臓に悪い……。
「マルク……貴様、何故、我を殺さなかった」
どういう心境の変化か『汝』が『貴様』になっている……気にしないでおこう。
しかし、月の女神様もそうだが、そう問う決まりでもあるのだろうか?
まぁ、大した理由じゃないんだが、神様が聞きたいならば、答えるとしよう。
「俺は、自分の命を捨てて世界を守ろうとする人を、殺したくも、死なせたくもないですから」
「甘いぞ……我が人の味方である保障が何処にある」
戦いの神は怒りに満ちた顔で立ち上がり、そして、銀の剣の切っ先を俺の首元へと突き付けた。
瞬間、俺達の元へと駆け付けようとしていた皆に緊張が走ったのが、こちらまで伝わって来る。
張りつめた空気の中、俺は不思議と落ち着いていた。
女騎士を通じて知った、神の自己犠牲の精神からだろうか?
戦いを通じて感じた、ある種の信頼からだろうか?
それとも、ミュール様と同じ顔をしているからだろうか……いや、ちょっと戦いの神の方が、怖い顔をしているな。
剣を突き付けたまま、真っ直ぐに銀の視線で俺を射抜く神に対し、こちらからも視線を返しながら、俺は率直な考えを口にした。
心のままに。
「ありません。もし、戦いの神が……ミネルヴァ様が人に、ミュール様に害をなすというのであれば……その時は、俺が貴女を討ちます」
俺の答えを聞いた戦いの神は、突き付けていた銀の剣を虚空へと消し去り、怒りに満ちた顔を崩し、突然笑い始めた。
「ハーハッハッハ。それでこそ、我が英雄。その時を、楽しみにしているぞ」
ミュール様に似た顔が、快活に、且つ豪快に輝いている。
俺は、その光景を何処か奇妙に思ってしまいながら『その時』が来ない事を、心の中で祈っていた。
目の前の神にではなく、居るかも分からぬ運命の神に。




