08.視線
「ねえリーシン、雨はなぜ空から降ってくるの?」
最近ネケナ王女はいろんなことをリーシンにお尋ねになる。リーシンは少し考えてから答えた。
「風が雲を運び、そして雲が雨をもたらす、そのように聞き及んでおります」
王女殿下のご質問にご回答するにはいくつか気をつけないといけないことがある。ひとつは質問への答えが、また別の質問に続くということ。
「ては風はどこから雲を運んで来るの?」
ふたつめは王女は同じ質問をいろんな人物にすることだ。今回も侍女たちに聞き、そして教師役のズヒンカ司祭にも聞いているに違いない。
「私にはわかりません。ズヒンカ司祭にはお聞きになりましたか?」
ズヒンカ司祭はリーシンが頼み込んで王女の教師役として来てもらっている。ガチガチの伝統派司祭ではありながら、温厚で博識、対立する立場の者とも穏やかに話ができる柔軟さもお持ちの方だ。しかしながら王女は首をお振りになった。
「神の思し召し、それ以外の答えが帰ってくるとは思えないわ」
人と人の関わりについて柔軟なズヒンカ司祭も、自然の摂理については頑固なようである。しかしながら、司祭は国内に広く人望を持っており、王女の将来のためにも必要な方なのだ。リーシンは自分が聞いた中で一番納得できた話をすることにした。
「おそらくは本当に神の思し召しなのでしょう。しかし雲は風が海の水を空に舞いあげて、それを風が運んで来るのだ、そのように言う者がおりました。山上で生まれるように見える雲も、元々は海風が運んできた細かい水でできている、そう申しておりました」
でも雨水は塩辛くないよね。この話を聞いた時に、リーシンはそのように思ったが、王女様はこの宮殿を出たことがないので、海水がどのようなものかご存じないから問題ないだろう。
なお、王女との会話はトテッタ語だ。外国の使節を逢える時はもちろん、他国に嫁ぐ時にもトテッタ語は必ず必要となるはずだ。それにアランハ王妃の娘として、トテッタ語ができないのは恥ずかしいことだと思うものも多いだろう。そうすると、ネイティブなリーシンがご教授するのがやはり適当だろう。
「その話によると、水は海から来て海へ帰る、そういうことなのかしら。海風がそのように水を舞いあげるというのは不思議だけれど、わからないではないわね」
王女のそばで澄ましている侍女たちも、ほとんどトテッタ語をわかっていないだろう。トテッタ語をちゃんと聞き取れていたなら、この異端じみた会話に、もう少し青い顔をするだろう。アランハ王妃に仕えていた侍女はもう一人も残っていない。この宮殿にいるトテッタ人はリーシンただ一人だ。
「世の中はわからないことだらけでございます」
リーシンの言葉に王女はそうね、とうなずくと、不意に話題を変えた。
「私の夫となる方が誰になるのか、まだわからないわよね?」
このように不意に話題を変えるところは、母親であるアランハ王妃に似ておられる。そしてこれは先程のよりもさらに危険な質問である。
「それはいずれ陛下がお決めになることでございます。おそらくは殿下にふさわしい、高貴な若君をお選びになるでしょう」
王女の質問で気をつけるぺき事のよっつめ、それは王女がなぜその質問をしたか、である。王女は王太女なのだから、国内大貴族の次男なり三男なりが選ばれるはずだ。その王配の助けを借りながら、国を統治することが彼女のあるべき未来である、
しかしながら王女のもう成人している庶兄達にもそれぞれ支持者がいるし、アランハ王妃亡き後、喪が明けるとすぐに迎えられた現王妃にも王子がいらっしゃる。もっとも王子が産まれたのは再婚のわずか一ヶ月後であったので、ズヒンカ司祭が憤慨していた。あれでは庶子と変わらんだろう、そう言うのだ。
「でも、お母様のように他国へ嫁ぐこともあるかもしれないわね」
おそらく侍女の誰かが、この国の女王となる未来とは別に、誰かの妻として、母親としての未来がありえることを王女に吹き込んだのだ。リーシンは慎重に言葉を選んだ。
「王女様はいずれはこの国に君臨される御身です。陛下のお考えにもよりますが、外国にお嫁ぎになることは、まずないのではないかと愚考します」
「お父様のお考え次第では、ありえると言うことね。もしあるとするならば、やはりトテッタかしら?」
もし王女が国外に嫁ぐとすると、相手は王族しかありえない。この大陸で国と呼ばれるのは七か国。その中ではリーシンの母国であるトテッタが国力が抜きんでている。それに次ぐのはこのケーカーだ。
だがトテッタの王族の中で、彼女の夫となりえる候補者がリーシンには思い浮かばない。トテッタの王太子に息子がいればいとこ同士の婚姻のありえたが、王太子には子供がまったくいない。トテッタ国王の孫であり、ケーカー国王の娘であるネケナ王女が、それ以外の国に嫁ぐ可能性は少ないだろう。北のアンエアはここのところ立て続けにケーカーとの戦いに敗れているし、南方の国々はトテッタの工業製品と商人に食い荒らされつつある。
「陛下、あるいは王女殿下のお考え次第と存じます」
リーシンは微妙に表現を変えた。トテッタの国王陛下がご健在であれば、その孫にあたるネケナ王女が後継者から外れることはないはずだ。それなりの御年ではあるが、まだまだご壮健だと聞いている。
ネケナ王女が黙ってリーシンを眺めているのがわかる。こんなところも母君に似ていらっしゃるとリーシンは感じた。もしアランハ王妃に仕えていた侍女が今も残っていたならば、王妃がリーシンに向けていた視線とその娘がリーシンに向ける視線の違いに気が付いたに違いない。
リーシンは茶菓子をいただきながら、先ほどの話を考えていた。宮廷の中で王女を将来の女王の座から引きずり落そうとする者たちがいる。この話は母国に報告しておかなければならないだろう。
リーシンが母国にもたらした報せは、しばらくの時をおいた後、リーシンの期待とは逆の効果をもたらすことになった。






