過去
カナが3歳になった年の秋頃、高校3年生だった光樹が深夜に帰宅した。
「お帰りなさい。」
カナの母が、玄関で出迎えた。
「起きていたんですか。・・・待ってなくても良いって言ったじゃないですか。」
そう言いながら、光樹はリビングに向かった。
「ごめんなさい。今日はちょっと・・・」
母が何かを言いかけたとき、リビングに入った光樹は、ソファーに寝ているカナを見付けた。
「どうしてここに?」
「光樹さんの帰りを待っていたんです。」
「俺を?」
母は、頷きながら小さな包みを光樹に渡した。
「今日、カナが初めてクッキーを作ったんです。形はいびつなんですけど、どうしてもこれをお兄ちゃんにあげるって言って聞かなくて・・・。」
光樹は小さな袋に沢山詰まったクッキーを見つめた。袋の口はピンクのリボンで縛られ、そこに添えられている小さな紙には、カナが一生懸命描いた顔の絵が描かれていた。
「それは、光樹さんの顔なんですって。」
母はテーブルの上に置いてあった紙を、数枚光樹に見せた。
「何度も書き直して、やっと納得したみたいで。・・・どれも同じなんですけどね。」
光樹は黙って、カナの書いた絵を見つめていた。
「誕生日に光樹さんから頂いたぬいぐるみが、とても嬉しかったみたいなんです。毎日、朝から晩までずっと離さなくて、最初の頃はお風呂も一緒に入るって、聞かなかったんですよ。」
母がそう言うと、光樹はカナが抱きしめているぬいぐるみを見た。・・・3歳の誕生日に、光樹がプレゼントしたクマのぬいぐるみ。特にこれといった物でもなく、たまたま見かけた物だったので、カナがこんなにも喜んでいるとは、思っても見なかった。
「お風呂、温めてきますね。」
母が浴室に向かおうとすると、
「いえ、今日はシャワーで。・・・戻るまで、カナをここに寝かせて置いてください。」
「えっ・・・?」
光樹は、クッキーの包みと似顔絵の紙をテーブルに置きながら、
「僕が上に連れて行きます。」と言い、浴室に向かった。
浴室から戻った光樹は、クッキーの包みを手にすると、カナを抱き上げ2階に上がった。
両親の寝室に、カナのベッドが置いてある。
枕元にクッキーの包みを置くと、光樹はカナを抱いたまま、一緒にベッド入り腕枕をした。
「光樹さん!もう大丈夫ですから・・・」
母がそれを見て、小声で光樹に言った。
「今日は一緒に寝ます。明日起きたら、すぐにクッキーを貰えるようにしておかないと。」
そう言うと光樹は、カナに優しく布団をかけた。
母はその姿を見て、それ以上は何も言わず、自分のベッドに入った。
光樹は、じっとカナの書いた絵を見ていた。
もう十数年も経っている。線の一本一本を記憶する位見てきたが、それでも光樹は、時々カナの絵を手帳から取り出しては、じっと見つめていた。
「光樹の家に行くなんて、何年ぶりだろうな。」
遼はそう言いながら、誰よりも浮き足立っていた。
「何年ぶりって、そんなに経ってないだろう。」
光樹は苦笑いをしながら、門の横にあるインターフォンを押した。
「信一は初めてか?光樹の家に来るのは。」
「ああ、初めてだよ。・・・しかし、ずいぶんでかい家だな。」
信一は、門から敷地の中を覗き込んだ。
「信一の所だって、立派だったじゃないか。」
光樹はそう言うと、
「あ、俺です。光樹です。」と、インターフォンに向かって言った。
返事と共に、門の横にあるドアの鍵が開錠され、三人は中に入っていった。
玄関では、カナと母が三人を迎えた。
「おにいちゃん!!!」
小さいカナが、光樹を顔を見ると、満面の笑みで駆け寄って来た。
「ただいま、カナ。いい子にしていたかい?」
光樹は駆け寄るカナを抱き上げると、優しく髪を撫でながら話しかけた。
「うん!いいこにしてたよ!!」
嬉しそうに話をする二人を見て、遼と信一は思わず顔を見合わせた。
「光樹・・・の、子か?」
遼がぼそっと言うと、光樹は珍しく声を上げて笑った。
「そう見えるか?そうだよな。」
そう言うと、カナの顔を見て、
「カナ、お兄ちゃんがパパと間違われたぞ!」と言った。
「お兄ちゃんがパパだったら、カナはうれしいよ!!」
カナはそう言うと、にっこり笑った。
「カナ!そんな事言うもんじゃありませんよ!」と、慌てて母が言った。
「良いじゃないですか、お母さん。どうせ親父もいないんだしっ―――」
「何か言ったか?」
突然リビングから現れた父に、光樹は驚いた。
「うわ!!いたのかよ!!」
「何を騒いでるのかと思えば、私の悪口か?お前も随分大人になったもんだな。」
そう言うと父は、光樹からカナを奪い取り、
「カナ、お兄ちゃんよりパパの方が、いい男だぞ〜。」と言った。
その光景を見ていた遼と信一は、光樹の様子が最近変わったことが納得できたような気がした。
3人は、光樹の部屋でコーヒーを飲みながら話していた。
「そうか、おじさん再婚したんだ。」
遼は、光樹のベッドに寄りかかりながら、そう言った。
「ああ。もうすぐ一年になるよ。」
光樹は、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
「おばさんはどうしたんだ?」
幼馴染みの遼は、光樹の実母とも面識があり、少し実母のことが気になった。
「実家に帰ったらしいよ。・・・離婚してから2年経つけど、一度も会ってないから、どうしてるかは分からないけど。」
「そうか・・・。なんか、それらしいことは聞いてたけど、本当に離婚してたんだ・・・。」
遼は、少し視線を落としながらつぶやくように言った。
信一はそんな遼を横目で見ながら、コーヒーカップをテーブルに置き、
「最近、様子が変わったなと思ってたけど、ご両親のことが原因だったのか?」と、聞いてきた。
「様子?俺、そんなにおかしかったか?」
光樹が、少し驚いた顔を見せた。
「おかしいって訳じゃないけど、随分夜遊びするようになったかと思えば、ピタリと遊ばなくなったり。なあ、遼。」
そう言うと、信一は遼を見た。
遼は軽く頷きながら、
「ああ、最近様子が変わったなって言ってたんだよ。信一と二人で。」と言った。
光樹は、しばらく黙っていたが、静かに口を開いた。
「おやじと母さんの離婚は、仕方ないと言うか当然だとは思ってる。・・・母さんは家の事も俺の事も一切何もしないで遊び歩いてたし、おやじにも愛人がいた。それは最近始まったことじゃなくて、昔からだったんだ。・・・だから、10何年も夫婦でいる方がおかしいくらいだったんだよ。」
光樹の話を聞きながら、信一は静かにコーヒーを飲んだ。
「だけど・・・いざ離婚すると・・・何て言うか・・・上手く言えないな・・・。」
光樹は、両手で頭を抱えながら俯いた。
「母さんの事は、あまり好きじゃなかった。母親だと思ったことも、なかったかもしれない。・・・でも、いざいなくなると・・・。」
光樹は、言葉を詰まらせた。
そんな姿を見た信一は、冷静な口調で話し始めた。
「光樹の気持ちははよく分かるよ。どんな親でも、光樹の実の親であることは変わりない。
夫婦関係が事実上破綻していても、それが本当の破綻になると、気持ちはまた違ってくる。光樹が複雑な思いを抱えるのは、無理のないことだ。」
信一は、コーヒーカップを手にすると、
「俺の両親も、同じような感じで離婚したんだ。」と言って、一口飲んだ。
光樹は、ちょっと驚いた表情で信一を見た。
「もう10年前の話だけどな・・・。でも、光樹には新しい家族がいて、今は幸せそうじゃないか。」
信一は光樹の顔を見ると、口元に笑みを浮かべ、
「あんなに可愛い妹が出来て、羨ましいよ。」と言った。
光樹は、ゆっくりと視線を外し、大きく息をついた。
「最初はなんとも思わなかった。妹なんて・・・。ただ、オヤジの家族が増えたって言うだけで、俺の家族だとはこれっぽっちも思わなかったよ。でも・・・」
光樹は机の引き出しからカナの絵を出し、遼と信一に見せた。
「俺の顔だって。・・・全然似てないだろ。」
そう言って、笑顔を見せた。
「誕生日にあげたぬいぐるみが、嬉しかったらしくて。・・・そんなことで、凄く喜んでくれたんだ。 思ってもみなかったよ。」
「可愛いな〜。カナちゃん。」
遼はカナの絵を見ながら、ニコニコしていた。
光樹は一言、
「ああ・・・本当に可愛い妹だよ。」と言った。