幸福には程遠い
「生きることは罰なんだね」と言っていたのは誰だったのか、思い出すことができない。昔観たアニメのキャラだっけ? それともアマゾンプライムで適当に見たB級映画の主人公? 毎日情報を浴び続けていることの弊害だ。何がどれだったかも思い出せない。
そんな人生を生きているせいで、今じぶんが何歳なのか、今日が夏なのか冬なのかさえ、明確にわからない。いらない情報をできるだけ遮断して生きることが、引きこもりとして生き抜くコツだ。いらない情報はあたしたちの首を絞める。殺されるよりか生きているほうがましだ。
こんなつまらない人生を生きているあたしにも、娯楽がある。
アマゾンプライムと、YouTube、たまに飲むパパのブラックニッカとBさん。
今日はパパが出張で、ママは誰かの家に泊まりに行っていた。あたしが幸福を感じるのは、こういうときだ。家に誰もいなくて、自分一人だけの空間を手に入れたとき。そんな日じゃなきゃ、ブラックニッカを飲むことはできないし、Bさんと通話することもできない。
リビングでノートパソコンを起動させた。スカイプがぴょこんと通知を教えてくれる。一人しか友達がいないから、通知元が誰なのかはすぐにわかった。Bさんだ。
Bさんはあたしとは違って普通の人間だ。
おれは普通じゃないっていうけど、あたしから見たら十分普通に見える。ちゃんと働いているし、実家にお金を入れているし、メンヘラじゃない彼女もいて、たまに別の女性とセックスもする、ごくごく普通の男性。
Bさんが普通にこなせていることをあたしは何一つできやしない。ちゃんと働けないし、彼氏はいないし。もちろん、セックスもできない。だから、少しだけ憧れる。少しだけね。
でも「そういうことじゃないんだよ」と言う。
着眼点があたしとは違うみたいだ。給料が低いだとか、親の老後だとか、彼女の胸が小さいだとか、そんなことを気にしている。
彼に通話をかけると、3コール目くらいで電話に出た。
「今何してるの?」
聞くといつものぼんやりとした声で「スプラトゥーンしてる」とつぶやいた。
「楽しい? それ」
「楽しくないよ」
Bさんはいつもそうだ。楽しくないゲームを延々とするわけないのに、「楽しくない」と平気で言う。きっと彼は本当に楽しいとは思っていないのだと思う。そういう人なんだ。この人は。
「今日は珍しいじゃない。自分から通話してくれるなんてさ」
「なんとなく」
「なんとなくね。おれはさっき仕事終わって帰ってきて、イカはじめたところ」
「この時間まで仕事だなんて真面目だよね」
カチャカチャとコントローラーを操作する音がする。
「んなことない。おれは夏休みの宿題なんて出したことがないんだぜ」
「へえ」
「それに学校ではいつもいじめられてたしな。算数もできなかったし」
「うん。でも、今は普通に生きているんだから、いいんじゃない?」
「そういうことじゃないんだよな」
じゃあ、どういうことなんだろう。あたしは夏休みの宿題はきっちり終わらせていたし、学校でもいじめられたことがなかった。算数だってできた。でもこの体たらくだ。子供の頃にちゃんとしていたかどうかなんて、重要じゃない。
「あたしに比べたらまともだよ。うらやましいよ」
「どうかな。おれにとってはお前の方がうらやましいけどさ」
「へんなの。ところで、彼女とはどうなの?」
やれやれと言いたげにわざとらしいため息をついた。
「いつもお前は彼女のことを聞くよな」
「彼女がいるのにあたしと話しちゃいけないよ」
「関係ないだろ。あいつだっておれが浮気性なこと知ってるんだからさ」
「どうだか。普通は自分と付き合ったら浮気をやめると信じるものでしょ?」
「もっと現実的な子だからさ。問題ないよ」
あたしと付き合っていたときは浮気してなかったのにね、と言いたい気持ちをぐっとこらえた。
「お前と話す時間が好きなんだよ」
「ふうん。へんな人」
こうやって褒められることはうれしい。あたしには彼くらいしか話す相手がいないから、彼に嫌われたら独りぼっちになってしまうから。
ただ、それはよくないことも理解しているから、どうでもいい相手と話すように振舞う。口に出さない感情はないのと同じだ。
まあ、今はもう彼と付き合いたいとは思わない。恋心ではないのだろう。この感情の名前なんて知りやしないし、興味もない。
パソコン脇に置いたブラックニッカの水割りを飲んだ。
「何飲んでるの?」
「ブラックニッカの水割り」
「いつもそれだな。美味しいか?」
「ニートはお酒を自分で買うお金なんてないのです。パパの常備酒だよ。でっかいボトルに入ってるの」
「へえ。お前のとーちゃんアル中だもんな」
「あたしもまた働き出したらアル中になって死んじゃうんだろうな」
「早死するなよな」
「どうして?」
「寂しいじゃんか」
「そのころには結婚してるんじゃないの」
「まだわからないしな。別れたら付き合うか?」
「別れたらねー」
Bさんの冗談は冗談に聞こえない。
今さらこんな言葉でドギマギはしないけど、調子は狂う。考えながら話すような人ではない。いい加減な男だとわかっているのに。
もしも、別れていなかったらどうなっていたのだろう。結婚でもしていたのだろうか。それとも、何年もずるずると付き合い続けていたのだろうか。どちらにせよ、幸せではないのだろうな。
「こう見えておれ、結構お前のこと好きなんだよ」
「知ってる」
「お前はさ。おれのこと好きじゃないよな。今は無職だから相手してくれるけど、働き出したら相手してくれなくなるだろ」
「Bさんは彼女がいるじゃない」
「そういうことじゃないんだよ。寿司が食べたいときにステーキ食っても満たされないだろ? わからないかな」
「あたしは彼氏がいたら彼氏だけで満足できるし」
「うらやましいこった」
「付き合っていたとき、そんなじゃなかったよね。浮気してなかったでしょ」
いつも喉元に留まっている台詞をつい、今日はこぼしてしまった。
「浮気はしてなかったな。お前だけで満足できていたんだろ。不思議だな」
「へんなの」
「おれは前から女好きだけどな。変わっていないよ」
あたしは再びブラックニッカの水割りを喉に流し込んだ。
酔わなきゃやっていられない日はそう多くないのに、今日はなんだか酔わなきゃやっていられない。「彼女とうまくいかなきゃいいのに」って嫌な感情が身体を蝕んでいるのはわかった。こんなこと、考える資格なんてないのに。今は付き合っていないのに、へんだ。
いつかタイムリミットがやってきて、Bさんと一切話すことができない日がやってくるのだろう。そうなったとき、あたしはまっとうに生きていけるのだろうか。独りぼっちじゃなくなっているだろうか。
「Bさんがいなくなってもいいように、友達をたくさん作らなくちゃいけないな」
「しばらくはおれが相手できるし、今のままでいいじゃん」
「わからないじゃないの。突然結婚するかもしれないでしょ」
「そりゃそうだけど。おれが結婚する前にお前に彼氏できるだろ」
「どうだか。またすぐ別れるよ」
「まともな男捕まえろよー」
「うるさいな」
パソコンの向こう側にいるBさんが隣にいたら、手をひねってやれるのに。
「じゃあ、おれそろそろ寝るわ。夜更かしするなよ」
「はいはい。じゃあね」
「うん。またね」
Bさんはいつも「またね」という。「またね」と言ってくれるうちは次があるのだろう。いつか「またね」と言われなくなる日がやってくるに違いない。いつになるかわからないけど。
スカイプ通話が切れた後、誰もいない部屋はぞっとするほどの静寂で包まれていた。時間は零時前。まだテレビでバラエティ番組が放映されている時間だ。誰もいないリビングで一人でテレビでも見よう。つまらないけど、何もしないよりかはましだ。
いらない情報はあたしの首を絞める。
Bさんと話し終えるたび、彼女のことを聞かなければよかったと後悔をする。あたしが聞かなければ、自ら話そうとはしない人だと知っていながら聞いてしまう。傷ついてしまう。
「早く別れたらいいのに」
こぼしてしまった独り言がなんだか恥ずかしくって、グラスに少しだけ残っているブラックニッカを一気に飲み干した。
「もう一杯飲むか」
今晩はしばらく眠れそうにない。