迷い霧
「っ……!?」
黒頭巾が動きを止める。いつまで経っても刃が振り下ろされない。今までシュラを嬲って遊んでいたときのようなふざけた雰囲気が一切感じられず、ゆっくりと足を地面に下ろしてその身を固くした黒頭巾は、警戒心を顕にしてシュラの背後の赤茶けた道をじっと見つめる。
(……どうしたんだ?)
振り上げられた刃の輝きに死を覚悟したシュラであったが、どうにも様子のおかしい黒頭巾はそれどころではないらしい。
ふわりと薄桃色の煙霧がシュラの目の前を漂った。
その瞬間、黒頭巾が見せた行動はシュラの予想だにしていないものだった。
「どうしてこんな浅い場所に迷い霧がっ!!」
シュラが甘さと酸味を掛け合わせたような匂いを感じた途端、黒頭巾は今までまとっていた余裕を全てかなぐり捨てて全力で背後に跳躍した。絶対に霧に触れてなるものかとばかりに石壁を斜めに蹴って付近で一番高い建物の屋上に飛び乗って実に忌々しいとばかりに大きく悪態をつく。
「あーもう最悪だよ。どうしてこう一番イイ時に限って邪魔が入るかなあ」
霧はどんどん濃さを増していく。辺り一帯に夏場に果物を腐らせたような強烈な匂いが漂い、鼻がバカになりそうになる。既に霧の高さはシュラの背の高さを超えており視界は一切働かない。
「じゃーね、お兄さん。もう助からないとは思うけど……、もしまた出会う機会があれば、そのときはまた一緒に遊ぼう」
少しばかり声に寂しさを感じさせながら、シュラを見下ろす黒頭巾は最初に現れた時とは逆の光景をなぞるように月を背にして闇の中へとその身を融かして消えた。
◇
(助かっては……いないみたいだな)
シュラを包み込む薄桃色の霧。あの傍若無人を絵に描いたような黒頭巾がなりふり構わず逃走を決断したのだ。危険でないと判断するのはあまりにも楽観がすぎるというものである。
まず色と匂いからしておかしい。即座に死に至るような代物では無いのが幸いだが、あまり長時間吸っていていいものとは思えない。
足に刺さった長い釘を歯を噛み縛ってズルリと引き抜く。重い体を持ち上げたシュラはなるべく霧を吸わないようにと口元を破ったシャツの切れ端で覆う。
(早く霧から抜け出さなければ)
傷だらけの体に鞭打って何も見えない霧の中、なるべく傷の浅い体の左側を壁にこすりつけるようにしながら歩く。黒頭巾から逃げる際に視界不良の中を滅茶苦茶に走り回ったために、今自分が旧市街の何処にいるのかも定かではない。とにかく、分かれ道にぶつかるたびに右、左、右、左と交互に進んでなるべく同じ道に戻って来てしまわないようにして進んだ。
(次は……左だっけか?)
それにしても本当に入り組んでいる。上下左右と不規則に入り組んだ旧市街の地形は甘ったるい霧の匂いと相まってシュラの方向感覚をこれでもかと狂わせる。毎晩、寝る前に飲んでいる酒精が強いだけの安酒で得られる酩酊感を、爽快であったと思わせる程に目の前の景色がぐるぐるぐるぐると回って止まらない。
いつしかあれほどまでにシュラの感じていた体の痛みも全て消え去っていた。好都合と言ってしまうのは簡単だが、そうは問屋が卸さない。傷口から流れ出す血は止まらず、今も流れ続けている。恐らくこの霧には触れた者の痛覚を麻痺させる効果があるのだろう。
それだけではない。徐々に狂っていく神経、思考は目の前の景色同様に薄桃色の霧がかかったように働かない。まるで脳が溶け落ちて耳や鼻から流れ落ちているようだ。
なのに消えない。例え脳が溶けてなくなろうとも心そのものを消せるわけではない。
緩やかにシュラを蝕む霧に包まれたこの状況を落ち着いて、と言うにはいささか語弊があるが、黒頭巾によって眼前に差し迫った死が遠ざかったことで心の底から何かが気泡のように沸々と湧き上がってくる。
「フフっ……ハハハハ!」
何がおかしいのかシュラは堪えきれないとばかりに笑い声を上げた。一難去ってまた一難。黒頭巾という特級の人災をくぐり抜けたと思えば、今度は人間の感覚を狂わせる出口の見えない霧だ。なのにシュラはおかしくておかしくてたまらない。霧のせいで感情が狂ってしまったのかもしれないとも考えたが、即座にシュラは否定した。
「くふっ…ハハハハハっ!アーハッハッハッハッハ!!」
(なんだこの内側から膨れ上がる感情は。……いや、分かってる。分かっているが、これはもう抑えられない)
そもそもなぜシュラは旧市街の中に入ろうなどと思ったのだろうか。
「好奇心?」
間違ってはいないだろう。それこそ最初はこっそり覗き見るだけで危なくなったらすぐに引き返せばいいとも考えていた。
「スリルを味わいたかった?」
これも間違いではない。行ってはいけないと言われては、行ってみたくなるのが人の性というものだ。そんな場所への入り口がいつも通っている道路脇になんの障害もなくポッカリと空いているのだ。
目の前に人参をぶら下げられた馬の気持ちも分かるというものだろう。
だが、そうじゃないだろう。
駄目だ、もう自分自身を誤魔化しきれない。
黒頭巾に魔晶病の男の首が断たれたとき、最初に自分は何を思った?
美しい
そう、感じなかったか?
実際に目の前で首を刎ねてみせた悍ましさ溢れる、血で濡れた凶刃を美しいなどといったいどうして表現したんだ?
恐怖に彩られた男の最期を見てしばし呆然としてしまったが、それは命が失われる瞬間に見蕩れていたからじゃあないのか?
死にたがりの魔晶病患者になどなんの興味もなかったのに、いざそいつが生き足掻こうとした途端に目が離せくなったのはなぜだ?
これ以上はいけない。だというのに次々と溢れ出してくるこの感情の奔流を止めることが出来ない。
黒頭巾との間で行われた、シュラにとっては痛めつけられるばかりであった『おいかけっこ』でさえ、得難いひとときであったとさえ思い出される。
シュラと黒頭巾との間には確かな合意があった。
例え言葉を交わさなくても、両者の間で交わされた絶対のルール。
「最後に殺す」
「最後に殺される」
身分も立場も年齢も性別も関係ない。
原始的で、単純で、横暴な、あらゆる生命が行ってきた絶対普遍のやりとり。
殺生。
今にして思えば、黒頭巾にとってのそれはコミュニケーションの一つの形に過ぎなかったのだろう。
黒頭巾と一言も会話をしなかったのは本当にもったいなかった。
黒頭巾からすれば、猫が鼠で遊んでいるような感覚だったのかもしれない。しかし、だからといってそれで終わりというのはあまりにも虚しいではないか。
もしかしたら黒頭巾の死生観の一端を知ることが出来たかもしれないのに。
次は自分から話しかけよう。その結果、切り捨てられようとも一向に構わない。
ああ、なぜなら黒頭巾は人間だった。いかに人間離れした怪物であろうとも確かに人形ではなく、人間の姿をしていた。
魔晶病の男もそうだ。最初はキラキラ光る肉の塊としか感じられなかったが、生き足掻こうと黒頭巾から這いずり逃げた瞬間、男は確かに人間だったのだ。
もっと知りたい。もっと感じたい。
そのためなら何を差し出しても構わない。
そして伝えたい。遍く全ての生きとし生けるものたちへ。
いや、死んでいようが関係ない。墓の下から叩き起こして耳元で語って聞かせたい。
そのためなら、例えどんなに人の行いから外れた所業も厭わない。
シュラが旧市街に入った理由?
簡単な答えだ。退屈を持て余していた語り部の青年は、いっとう質の悪いロクデナシだったというだけの話だ。
「だから……そう、だから導いてくれ。そこに、いるんだろう? だから俺をここに呼んだんだろう?どこの誰かは知らないが、必要なんだろう俺の協力が」
旧市街への入り口でシュラの袖を引いた何者かに懇願する。今となっては、はっきりと感じる意志の含まれた強い存在感。首根を掴んで引かれるような感覚にあらがわずにシュラはフラフラと突き進んでいく。
光が見える。
躊躇することなくシュラはその中へと飛び込むと、その意識を深く闇に沈めた。
ホントの自分に出会えたみたいな?
インドにいって価値観変わった人でもここまでは変わらないと思う