ブランヘルム旧市街
ブランヘルム旧市街はブランヘルムが交易都市として認識されるようになる以前、かつての人間と魔王の戦いの最前線、武装都市ブランヘルム時代の街並みが残された地域である。新市街から見て北西に位置しており、その面積はブランヘルム全体の15分の1程度の大きさに及ぶ。
15分の1と聞くと狭く感じるだろうが、これはブランヘルムが交易都市としての役割を求められた結果として新市街が大きく広がったことが理由であり、決して旧市街自体が小さいというわけではない。
ブランヘルム自体が王都エルシュテインに次ぐ大都市であるため、その15分の1というのはむしろ非常に広大と言っていい。
そんな旧市街には表の世界には居場所のない者たちや、人目につくことを厭うならず者たちが多く住み着いている。
壁には所々に黒ずんだ血の跡が残り、地面には汚物が撒き散らされている。これを見ただけでも、とてもではないが真っ当な人間が生きる場所ではないことがわかるだろう。
市街戦を想定されて狭く複雑に入り組んだ旧市街の地形は、逃げ隠れする者に大きく味方する。そのためどんなに凶悪な犯罪者だろうが、一度ここに入り込まれてしまうと憲兵も手出しが出来ない。
旧市街そのものを取り壊そうという意見もあったが、取り壊そうと案を出したブランヘルムの有力者たちが次々に不審な死を迎えると、旧市街の話題そのものがタブーとして扱われるようになってしまった。
そして、強盗、強姦、詐欺、殺人、違法取引 etcetc…… 旧市街の中ではありとあらゆる犯罪行為が日常的に行われている。一説によるとマハラウール公国全体における犯罪行為の、実に10%以上がここ旧市街で行われているとされており、魔都などと揶揄されるのも無理からぬことだ。
もっとも旧市街の中での実情など、外部に伝わってくるものでもないので実際のところはより劣悪な環境なのかもしれない。調査目的で旧市街に立ち入った人間は誰も帰ってこなかったのだ。知りたければ自身の命を担保にして、己の目で確かめる必要があるだろう。
ブランヘルム旧市街……、そこは時代に取り残された掃き溜め。古今東西ありとあらゆる悪意を詰め込んで押し固めた背徳の坩堝。常人が入れば二度と出てはこられない。たとえ出ることが出来たとしても真っ当な人間として出ることは出来ない。
誰もが目を逸らす地獄の一丁目に語り部の青年は足を踏み入れた。
「とうとう入ってしまった……」
裏路地へと足を踏み入れたシュラは、思いの外に軽い足取りで旧市街への道を進んだ。子供の頃からの葛藤を呆気なく、という言葉で片付けてしまうのはいささか趣に欠けるというものだが、それでもシュラにとっては拍子抜けと言っても過言ではないほどに、最初の一歩に抵抗を感じなかった。
まるで、今日まで見えない壁が立ち塞がっていたようにも感じられたが……
「んな訳ねえか……。単にビビってただけだな」
慎重に歩を進めながらも、どこか余裕のある面持ちで、口の端を持ち上げながらシュラは思考する。
(いけねえ、どうにも気分が浮ついてやがる。引き返すなら今だってのにまるで足が言う事を聞かねえ)
初めは好奇心、次いで根拠のない全能感。
今のシュラの体を支配して動かしているのはただそれだけだ。故に、自制が効かない。いつもなら絶対にこんな危険を冒そうとは思わなかっただろうに。
(なんだ?明かりが見えてきたな……)
次第に明るさを増していく光は饐えた匂いとともにシュラを包み込んだ。
「うっ!」
あまりの光景に思わず息がつまる。
「これは酷いな……」
明かりと饐えた匂い、その両方を発していた物の正体がシュラの眼前に現れる。
キラキラ光る肉人形。
人間の男だ。道端に横たわっており、かすかに胸元を上下させていることから、かろうじて生きていることが分かる。
だが、その全身を血で濡らし傷口からは膿が吹き出しており、体中黒ずんで健康な皮膚は一分も残ってはいない。手足の骨は歪な形で捻じれ曲がっており、骨の一部が飛び出している。
そして何より際立って目に入るのが、全身で結晶化している青や桃色、紫、黄、赤、緑、橙、あらゆる色で極彩色に光り輝く鉱物だ。よく見ると飛び出た骨の先端が透明に結晶化しているのも分かる。
皮膚を突き破るようにして突き出したそれらの鉱物は、死を目前とした人間とのコントラストによって酷く歪な美しさを醸し出していた。
「魔晶病か……」
顔をしかめながらもシュラは心当たりのある病名を呟く。
魔晶病は近年マハラウール公国において患者が発生するようになった治療不可能の奇病だ。魔晶と名前のついた通りに全身にグリムライトと呼ばれる光り輝く結晶が生えその身を苛む死病である。この病気の発生原因はわかっておらず、伝染病や水質汚染、果ては魔女と交わった者への神罰などとあらゆる可能性が検証されたが、どれも否定されている。
この奇病は凡そ1週間ほどかけて症状が進行する。
1日目……全身に激痛が走り、まともに立って歩けなくなる。神経が過剰に覚醒し眠れなくなる。
2日目……皮膚の下にグリムライト結晶が形成され始める。内臓機能が大きく低下する。
3日目……グリムライト結晶が皮膚を突き破り外に飛び出す。言語中枢に異常をきたす。
4日目……筋組織のグリムライト結晶化が始まる。骨格が結晶化とともに歪みだす。
5日目……臓器でグリムライト結晶が形成され始める。筋組織の大部分がグリムライト結晶化する。
6日目……臓器の大部分がグリムライト結晶化する。脳のグリムライト結晶化が始まる。
7日目……結晶の成長率が最大化する。肉体の大部分がグリムライト結晶化し、死に至る。
魔晶病の進行を止める方法は無く、一度罹患すれば只々死を待つのみである。この病気の最も残酷な点は症状が進行している間の患者は、はっきりと意識を保ち続けるという点である。理由は定かではないが頭部、取り分け脳への結晶化の進行は死の直前まで行われず、一睡も出来ないまま最後の瞬間まで激痛にさらされて苦しむことになる。
そのあまりの悲惨さから基本的に安楽死を認めない天勇教会においても(公に認めてはいないが)例外的に、医師による安楽死を認める意向を示している。
余談ではあるが……グリムライトは高額で売れる。
旧魔王領で採掘される資源の中にもこのグリムライトは含まれており、魔導燃料や魔導触媒として利用されている。とりわけ高純度のグリムライト結晶は採掘量の少なさもあって絶大な需要を誇っている。
そして、魔晶病患者の身体に発生するグリムライト結晶はあまりの高純度から計測不能という意味を込めて99.99999999999と称され、その希少性から買い手が後を絶たない。
そのため、貧困部においては、結晶化が最も進行する最終日まで苦しむ魔晶病の子供をあえて安楽死させずに最後まで放置する家庭が多く見受けられる。
商人たちは魔晶病の患者が出た家があると噂が立てば我先にとその家に向かい、瞳を爛々と輝かせながらよだれを垂らして獲物の死を待ちわびる。
魔晶病の患者にとって一番つらいのはもしかしたら周りの人間から向けられる悪意と欲望の視線なのかもしれない。
「はあ……旧市街に入って早々えらいもんを見つけちまったなあ」
(どこかから逃げ出してきたのか)
引きずって歩いてきたような血の跡とこぼれ落ちたグリムライト結晶からシュラは判断した。魔晶病患者など旧市街の連中からすれば文字通り生きた宝石だ。最後まで生き地獄を味わうくらいなら逃げ出して死ぬことを選ぶのも想像に難くない。運良く旧市街からの出口付近までたどり着いたが体力の限界に達して倒れ伏したのだろう。
グリムライト結晶の進行度から見て3日目か4日目といったところだろうが血を流しすぎている。これ以上はあまり持たなそうだ。
「う…あ」
「おっ、なんだ?どうした?」
シュラを認識したのか男は声を上げた。漂う腐臭に辟易しながらも声を聞き取ろうと男に近いたシュラに、男は絞り出すような声で懇願する。
「ご…ろじ…で……ぐれ」
半ば以上に予想されていた言葉ではあったがシュラは閉口する。
「勘弁してくれよ」
他人などどうなっても構わないと常日頃から考えているシュラであっても、わざわざ死にかけの人形の介錯などやりたくはない。上着のポケットを弄って取り出した予備の小さなナイフを投げ渡す。
「そのナイフをやるから一人で勝手に死んでくれ」
これ以上ここで得られるものは無いだろう。男の体からグリムライト結晶を剥ぎ取れば中々の金額になるのは分かっているが、シュラはそんなことがしたくて旧市街に入ったわけではない。もっと……自らの全てを書き換える何かがこの先にある。その予感が頭の中で暴れまわっている。死体同然の男になど興味無いとばかり、男に背を向ける。
「んんうぅっ!ご…ろじ…でっ!じ…ぶんじゃじ……ねない!」
「はあ?何言って?」
必死に追い縋るような男にシュラはいい加減にしろとばかり今度こそその場を後にしようとした、その時……
「こんなとこまで逃げ出してきたのかい宝石くん。おや?お友達も一緒みたいだね」
長い夜が始まる。