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聖女

 アールブフェスト聖堂、この小さな聖堂は天勇教においては重要な聖地の一つだ。

 かつて世界が魔王との戦いによって未曾有の危機に陥った際に、神がここに天界より勇者を遣わしたとされている。

 埃ひとつ落ちていない床は鏡のように磨かれ、煌々と焚かれた聖火の光を照り返す。慈愛の表情を浮かべて微笑む女神像は、天勇教における不変不朽の象徴であり、その白き尊貌にはわずかな翳りも見い出せない。

 今となっては、より大きく綺羅びやかな大聖堂が聖都の中心に建立され、訪れる信者の数こそ減ったもののその聖性は今もなお健在である。



 そんな聖堂に聖歌が響き渡る。美しい歌声、女の歌声だ。



「Eu deau era som nia


sroth crudiart


neisen rodiart menhien 」



 記録が残っていない程の古き時代に作られたとされる女神を讃えた聖歌、代々天勇教の聖職者達に歌い継がれてきたその歌の意味は、今となっては誰の知るところでもない。ただ歌詞と旋律だけが人々の記憶に残るのみである。


 

「Sanct jupitell solen sie


dinkuht rolen sie 」



 この聖歌の持つ重要な意味は判明している限りにおいて最古に歌われた聖歌である点だ。この聖歌を構成する言語は神の用いた言葉に最も近いとされている。

 現在に至るまで神学者や言語学者の手によって長年解析が行われているが、議論が紛糾するばかりで未だにこの聖歌の意味は解き明かされていない。



「Ur este jatel gulnart


yuh halvin earkt soltein」



 だが、この聖歌が少なくとも500年以上もの歳月にかけて歌われてきた理由は、もっと単純なものだろう。


 ただただ美しい、それ以外に理由など存在しない。緩やかな旋律に沿って歌われる歌は、時代を超えて人の心を動かし続けている。



「El sinen……」

 静かに歌が終わる。名残惜しむかのように天井で聖火が揺れた。




 パチパチパチパチ



「お見事でございました、ジルトアリス聖女猊下」

「セっ、セミナーテ! 聞いていたのですかっ!」

 弾かれるようにして聖女と呼ばれた女が振り返る。この場にいた拍手を打つもうひとりの女の存在に気づくと、豪奢な装飾の施されたヴェールの下に見え隠れする頬を真っ赤に染めた。



「約束の時間まではまだ大分余裕があったはずです!それに来ていたのなら声をかけてくれても良いではありませんか!」

「ジルトアリス様の守護者たるわたくしが遅れて参じるなどあってはならないこと。それに、いと高き女神様を奉る信深き私に聖歌を止めろなどとは、また随分と酷なことを仰る」

 恥ずかしさを隠さんと上げられた抗議の声をに、悪びれることなく麗しの聖者は涼しい顔で返す。



「それにしても本当に素晴らしい歌声でございました。天は二物を与えないと言われておりますが、どうやらそれは嘘だったようですね。地上広しといえども、ジルトアリス様ほどの美声の持ち主は他にはいないことでしょう」

「うっ、そんなに褒められても何も出せませんよ」

「いえいえ、こうしてジルトアリス様にお目通りの叶うだけでも、このセミナーテにとっては至福にございます。どうしてもと仰るのならまた次の機会にもその美声をお聞かせ願えれば、お願いと申し上げます」

「もうっ! からかうのは止してくださいっ!」

 




 ジルトアリス・クリストフィーネル・シュカルム・トリーネン。彼女こそが信仰をほしいがままに集める世界最大の宗教である天勇教の聖職者、その頂点にして女神の威光を示す権威の象徴である。
















 ◇


「それにしても本当にどうして今日は、日も上がりきらないこんな朝早く迎えに来たんですか?」

 視線に少しばかりの恨めしさを込めてジルトアリスはセミナーテに訪ねた。毎度のようにジルトアリスをからかってくるセミナーテの様子から、特に深刻さは感じなかったため心配はいらないだろうが、それでも気になったのでジルトアリスは聞くことにした。



「ご心配をおかけしてしまったようで申し訳ございません。いえ、特別なにか喫緊の事態が起きた、というわけではないのです。ただ、今日から春天祭の準備が始まるとあっては居ても立ってもいられずに早起きをしてしまいまして。ジルトアリス様のご迷惑となってしまったこと、お詫び申し上げます」

「あら?セミナーテにも年相応の部分があるのですね」

 謝罪と一緒に意外な一面を見せた自身の守護者に対してジルトアリスは、特に怒るようなことはなく素直な反応を返した。



「ははは。いや、恥ずかしい限りです。子供の頃は毎年父に連れて行ってもらいまして、今でも祭の準備が始まる頃になると懐かしく思うのです」

「あなたのお父様は……」

 はっ、としてジルトアリスはすぐに気づく。からかうような言い方をしてしまったことに、申し訳無さそうにしながら予想された答えを聞いた。



「はい。すでに鬼籍に入っております。ああ、そんな顔をなさらないでください。

 私ももう心の整理は済ませております。確かに寂しくはありますが、今もこうしてジルトアリス様のお優しさから元気を頂いておりますれば。セミナーテは世界一の幸せ者でございます」

「でも……」

「ほら、そのようなお顔をなされては、お美しいかんばせを曇らせてしまった私の立つ瀬がございません。

 ささ、馬車を待たせてありますのでこちらへどうぞ」



 セミナーテのエスコートで穢一つない純白に金色のラインが幾重にも入った、これまた純白の馬が引く馬車に乗り込む。深く沈み込むシートに腰掛けると、ジルトアリスは居心地悪そうに呟いた。

「それにしても未だにこの馬車には慣れません。揺れが少ないところはいいのですがどうにも見た目が派手すぎるといいますか、私には不釣り合いといいますか、もったいないような気がします」

 

 それに対してセミナーテはとんでもないと言わんばかりにまくしたてた。


「なんということを仰るのです!あなたこそは億を超える女神様の信奉者達全てから畏敬を受ける天勇教の聖職者、その頂点に君臨するお方であらせられる。そのようなお方に粗末な馬車をあてがったと知れれば、我ら天勇教会は世間から大きな顰蹙を買ってしまうことでしょう。

 それに、もう馬車を作ってしまったことには変わりございません。大切な御身のご聖体をお運びするとあっては、警護の面でも手を抜くわけにはいきません。ジルトアリス様が新しく見た目が控えめな馬車を御所望とあれば、当然ながら信頼できる職人の手によって我々警護の者たちも交えて、作り直すことになります。これは金銭的にも人的にもおおきな損失であり……」 


「分かりました!分かりましたから!」


「おや、左様でございますか?私といたしましてはもう少し聖女としてのご自身の大切さをご理解いただきたいと思うところではございますが、ジルトアリス様が分かったと仰られるのであれば否はございません。引続きこの馬車をご利用いただけるということでよろしいですね?」

 言質は取ったとばかりに微笑みを向けてくるセミナーテに対して、ジルトアリスは頬を膨らませてそっぽを向いた。



「セミナーテは意地が悪いです!この国で一番意地悪です!」

「これは手厳しい。しかし部下の諫言を聞き入れるのも上に立つものの資質でございます。ジルトアリス様には一人くらい私のように不躾に物申す不心得者が必要でございましょう?」

「もう……あー言えばこう言うんだから、もういいですぅ!」

 口では勝てないのが分かりきっているので話を切り上げると窓越しに外を眺めた。



 聖都エルドラン、大フェルリアート聖国の首都は1年に1度の祭を前にしていつも以上の賑わいを見せていた。しかし、今年はそこに異物が交じる。


 傷だらけで裸足の子供、ボロを着た老人、俯いて座り込む片足のない男……



「そういえば、最近貧しそうな人が増えましたね……」

「反乱を首謀した貴族達が討滅されましたからね。逃げ出した領民が各地からここ聖都に流れ込んで来ているのでしょう。あまり見ていては目に毒です。

 なに、すでに新しい領主達が送られています。彼らならうまく立て直してくれますよ。そうなれば元の聖都に戻ります」

「そうであればよいのですが……」

 そのヴェールの下に憂いを湛えながら、ジルトアリスはそっと目を伏せた。



 ジルトアリスとセミナーテを乗せた馬車が聖都の中央道をひた走る。

 向かう先は天勇教の総本山、エルドラン大聖堂が天塔を高くそびえさせながら今日も聖都の街を見下ろしている。

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