廃教会
「グウッ!生きてるのか俺は……!」
シュラの体から痛みを奪っていた薄桃色の霧がいつの間にか消え去っていた。霧の効果が切れ、思い出したかのように全力で主張してくる傷口の訴えにシュラは苦悶の声を上げる。幸いにも、見た目の割には傷は深くないが、それでもなるべく早いうちに治療をする必要がある。応急処置ではあるが役に立たなくなったシャツを裂いて傷口を縛る。何もしないよりかは遥かにマシになっただろう。
手足に力を入れて体を引き起こした。どうにも視界不良なのは空に分厚い雲がかかって月を隠してしまっているからだろう。現状を確認すると大きく息を吐いて嘆息した。
「たしか、迷い霧とか言っていたな……」
黒頭巾が確かにそう言っていたのを覚えている。
なるほど迷い霧とはよく言ったものだ。恐らくは旧市街特有の現象であるため仕組みに関して詳しいことは分からないが、あの阿片の如き薄桃色の霧に包まれては前後不覚となり迷って抜け出せなくなるのも無理はない。異常な酩酊感に囚われたが最期、どんな屈強な精神の持ち主であってもじわじわと体力を奪われて倒れ伏してしまうことだろう。黒頭巾が即座に離脱したのも肯ける。
そう考えればシュラは運が良かったのだろう。結果的に、という但し書きはつくものの黒頭巾という目下に迫った脅威から生き延びることが出来たのだ。悪運もここに極まれりといったところであるが二度も、三度もそのような幸運が続くとは限らない。
忘れてはいけない。ここは未だに旧市街、屍肉を啄むカラスたちの楽園なのだから。
「それにしても一体ここは何処なんだ……」
暗くてよく分からない。土地勘も全く無い中でとにかく遠くへ、もっと遠くへと歩き続けたのだ。シュラが今いる場所が何処なのかまるで検討がつかない。少なくとも黒頭巾と最期に別れた地点から大きく離れているのは分かっているのだが、そもそもその地点もよく分かっていないのでこの情報にもなんの意味もない。途方に暮れるにはまだ早いと、必死に記憶を探るシュラの中である一つの記憶が励起される。
『門』
たしか門をくぐらなかったか?
それもただの門ではない。人の身では辿り着けるはずのない、いや辿り着いてはいけない幽世にあるはずの門。
「そうだ。思い出したぞ。俺はたしかにあの黒い靄と対峙して、門を開いた」
記憶に思い至ったシュラを待ちわびた、と雲間から月明かりが照らす。シュラの立つ、この生と死を超えた先にある果てであり出発点でもあるこの居場所、その全貌が闇の帳を脱ぎ捨ててシュラの前に現れた。
(これは、教会か?)
シュラのよく知るどこの街に行っても見ることのできる天勇教の教会とは見た目が異なっている。石造りで頑丈そうではあるものの、大分古い時代に建てられたものだろう、所々が崩れ表面の漆喰が剥がれ落ちている。それこそ、数百年前の建造物と言われても疑問を抱かない。一般的に平らな十字の形で建てられる天勇教の教会とは異なり、この教会は箱型をしている。シュラが教会だと考えた理由はところどころに彫られたレリーフや彫像から神聖な物であると判断したからだ。
もっとも、叩き割られドス黒く汚れたレリーフや、首や手が落とされた彫像からは神聖さより不気味さが先に立つが……
「それにしても、よくこんな場所に教会が建っているもんだな」
いや、シュラにだっておかしくないのは分かる。ブランヘルム旧市街には未だにブランヘルムが武装都市であった以前の古い建造物が立ち並んでおり、この教会もその一つであろうことに疑いはない。ただ、この旧市街という悪意の巣窟との釣り合わなさから発せられた言葉である。
とはいえ、やはりその朽ち果てた死骸から放たれるような瘴気とでも言うべきそれが、この旧市街にあってなおこの教会を並々ならぬ場所であると示している。
中から周囲が一切見えない程に高い壁に囲まれて守られたその教会の敷地は意外なほどに広く、かつてはここに多くの信者たちが集い、祈りを捧げに来たのであろう。
だが、今となっては逆に、この四角く切り取られた箱型の庭は死した魂を閉じ込めて隔離するための収容施設の様相を呈している。
青々と葉を茂らせ生を謳歌していたであろうブナの木も半ばから折れて腐り落ち、季節ごとに色を変え訪問客を楽しませていただろう花壇の土は灰色に枯れ果てていた。
死後の世界、そんな言葉がシュラの頭の片隅に浮かぶ。
「馬鹿馬鹿しい」
確かにシュラは生きてここにいる。傷口から発せられる熱と痛みがその証拠だ。黒頭巾との命がけの逃亡劇を超え、脳を溶かし人を狂わせる薄桃色の霧を超え確かに生きている。そして門を開いたのだ。
シュラは後ろを振り向く。
そこにはやはり門があった。
夢の中で見た、見事な彫刻の刻まれたあの門とは違う、黒く錆びついた飾り気のない門。
いつこの門をくぐったのかは定かではない。ここまで必死に逃げてきたのだ。もしかすると、夢の中で開いた門は迷い霧を抜ける際に見た幻だったのかもしれない。
(ん?なにか書かれているな)
月明かりに照らされてはいるものの遠目にはよく見えない。近づいて指を当てながらそこに書かれた文字を読み取る。
『戻ることだけは決して許されない』
「はっ!上等じゃねえかっ!!」
もとより戻る気などサラサラ無い。あの門が幻であったかどうかなどこの際、どうでもいい。
シュラの魂を震わせた。
ただその一点のみにこそ価値がある。ならば答えは言うまでもない。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
地獄の底の蓋を開きに行こうじゃないか。
シュラは引きずりながらも生気を感じさせる足取りで進むと、教会の扉へと手をかけた。
ああ、シュラは気づいていない。先程シュラはここが死後の世界であることを否定したが、ある一面に置いてその考えは絶対的な意味で否定できない。
シュラはすぐに知ることとなるだろう。
「 死後の世界に、生者のまま足を踏み入れたものの行く末を 」
ここは死者の眠る教会、叩き起こされた死者が世界に何を齎すのか、今はまだ誰も知るところではない。
ようやっと到着しましたね