ノンストップ
近鉄奈良線という路線での話です。馴染みのない方は、調べてみてください。
難波駅。駆け込んだその後で、扉は慈愛の如く閉まった。せっかく始発に乗ったのに、座れないのは元も子もないが、次の電車を待つ時間が無駄に増えるよりは、良いだろう。先頭車両の前方には、平日から酒臭いオヤジの組が立っていて、席はぜんぶ埋まっていた。オヤジを避けて乗務員室を背に立つと、超編成の快速急行は、軋む鉄輪の音を響かせて、大阪の地下を抜けてゆく。僕は帰路について、余計疲れた。今日は鬱屈な日だった。
青女は次の日本橋駅で乗ってきた。青女というのは、青年の年頃の女性ということだ。少年、少女、青年まではあって、その先が無いのは日本語の不備であり、欠陥だ。仕方なく、青女と言うことを許してもらいたい。その表現以外、彼女には似合わなかった。その青女はひとりで乗ってきた。とりあえず、今はそれだけにしておく。
鶴橋駅で事は始まった。オヤジ組がだらだらと降りて、こちらは整列した五人ほどが乗ってきた。便宜上、大学生A、大学生B、おばちゃんA、おばちゃんB、おばちゃんCと呼ぶことにする。発車の合図がかかって、扉が半分閉まったとき、手を入れ扉をこじ開けて、猪のように、二人組が駆け込む。駆け込みA、駆け込みBだ。同年代の女の子だが、見たところ苦手なタイプだ。丸眼鏡に紅い口紅は、好きじゃない。
「これでいいん? ねぇ、これでいいん? 」
駆け込みAが駆け込みBに話す。とてもうるさい。そう思った。電車という密室で出す音量ではない。そして僕の頭の中で、駆け込みA、Bが、大声A、Bへと変わった。
「わからん。でもユイは鶴橋で地下鉄から乗り換えろ言うてたで。」
続けて大声Aが、
「行き先どこやろ、これ。えーっと、あ、奈良行きやて、これ。」
と、扉の上の文字表示板を見て叫ぶ。重ねて大声Bが、
「あ、ユイ今乗ったって。同じ電車ちゃう? 合ってるやん。」
と携帯を見て言う。大声Bという名をつけておいてアレだが、大声Bは、人並みの声量で喋るらしい。大声Aが大声を出すものだから、すっかり同じ穴の狢など思っていたが、彼女はまだマシみたいだ。ただ、車内では人並みの声量では大きすぎる。迷惑にならない程度にするのが最低限だと思うので、大声Bという名が完全に不適合なわけではない。そして大声Bの疑いを確認するように、大声Aは憚らずにユイに電話をかけ始めた。
「あ、ユイ? 今さ、電車乗ってんけど。鶴橋から。城ホの駅まで何駅? ……次の駅? え、同じ電車違うん? 次は……“いこま”やて。“いこま”。」
思った通りだった。大声コンビは、大阪城ホールに行きたくて鶴橋で乗り換えようとしたが、環状線ではなく近鉄に乗ってしまった。それも奈良行きの快速急行に。察するに乗り換えはユイ任せだったのだろう。だが乗り換えればいいという簡単な話ではもちろんない。大声コンビは、そこがかなり疎いのだろう。そしてこの電車は生駒駅まで止まらない。次の停車駅は大阪ではなく奈良。山の向こう側なのだから、不運だなと、整理したとき、
「間違えとるって。えー、どないするん? やばない? 真剣に。ガチでガチでガチで。戻らなあかんのやろ。」
大声Aが悲愴感に満ちた怒鳴り声を上げた。通話口のユイもさぞ耳が痛いに違いない。
そのときの場にいた全員が、同じ考えを抱いていたのだろう。冷ややかな目線が、大声コンビに集中していた。横に突っ立っていたものだから、連れと思われたら嫌だと思って、大声コンビを、特に大声Aを睨んだ。私は関係ありませんよ、と。騒ぎ続ける大声コンビを見ていて、怒りと少しの可笑しさが込み上げてきた。可笑しさが次第に大きくなって、怒りは消えかけた。だが、瞬く間に怒りは更に度を増して帰ってきた。それは大声Bの発言からだった。大声Bは、呟くように、
「何なん、全然止まらんやん。田舎のくせに。」
と言った。東大阪を田舎と見なす神経も分からないが、くせに、という言葉に引っ掛かった。それは、他人を蔑む言葉だ、と今にでも説いてやりたい。こいつら、迷惑掛けるだけでは飽き足らず、人に不快な思いをさせるのか。すかさず大声A、大声Bが嫌悪感A、嫌悪感Bへと脳内呼称が昇華する。一同の冷徹な目線は冷酷に、しかめた顔は強張った顔になった。おばちゃんたちは、何か囁き合っている。当然、嫌悪感コンビのことだろう。大学生A、大学生Bは、汚物を見るかのような形相だ。そして青女は、冷酷な目をして、顔を強張らせつつも、薄っすら静かに嘲りを浮かべていた。こちらを向いて。
まさかその時、彼女に話しかけられるとは思わなかった。真人間なら、誰しも車内では寡黙だから。まして、席を譲る他に、話しかける動機も必要もあるだろうか。
「可哀想ですね。この人たち。」
悟られないよう近付いてきて、独り言のように嘆いた。本当に独り言だったのかもしれない。だが、明らかに彼女は同意を求める目をしていた。彼女の真意は見えないが、可哀想とは、同情ではなく、侮蔑だということは、確実に分かった。
「ええ、まさに。」
と返すと、
「どうしますか? 」
と。このまま放置するのも、助けるのも、裁くのも、どうでもいいと思っていたが、僕の邪心が前に躍り出て、
「いくらなんでも、目に余りますね。罰を与えないと。」
と言ってしまった。残酷すぎる返答だ。彼女の求めるとおりを答えてしまった。口に出した途端、大いなる良心は消え、狭小な邪心が豹変する。
「同感です。」
と彼女は言った。もはや、声量は気にしなくとも良かった。嫌悪感コンビには聞こえていないことは明白だった。奴らは焦りと不安と悲愴で溢れているから、傍観者の声など、奴らの耳が受け入れるはずがなかった。さらに、連帯を得た正義は、肥大化していった。
石切駅の手前で嫌悪感Aが、
「大阪ぁ、遠いぃ……。」
と地団駄を踏んで嘆く。車窓からは、春の濁った霞の中に、大阪の現代要塞たる超高層ビルがぼやける。彼女と僕はお互い苦笑して、内面を譲り合う。怒りはより凝固になる。登坂を終えて突入した生駒山のトンネルの中で、嫌悪感Aはまた、
「全然出えへんやん、これ。何処行くん? なあ、何処まで行かせる気なん? 」
と暴れ口調で言う。嫌悪感Aの素行は一向に悪化する。青女の方を見ると、堅い目をしてこちらを見ていた。応えるように、目線で頷いておく。そしてトンネルを出たとき、僕は奴らに話しかけた。
「あの、先程から聞いてたんですけど、鶴橋に戻りたいんですよね。なら、ここで降りてください。降りて……」
「降りたら、同じホームに、電車がすぐ来ますから、それに乗ってください。あと、車内では静かにするのが、最低限のマナーですよ。」
いきなり彼女が割り込んできたので驚いた。すかさず、
「焦るのは分かりますが、小さい子連れの方や、お年寄りもいらっしゃるので、利用マナーは守ってください。」
と被せる。すると奴は歯向かうように、
「すいません。でも、自由ですよね。」
と言ってきた。説教されたことが癪に触ったのだろうか、反抗の意思剥き出しだ。ろくでもない。自由なんて言葉を軽々しく使う奴にろくな奴はいないのだ。自由なんて、誰にも分からないのに。嫌悪感Bは、嫌悪感Aが流石に悪いと思ったのか、
「すみませんでした。教えてくれてありがとうございます。」
と残して、未だ目つきの悪い嫌悪感Aを連れて、扉が開いてすぐ、駅の見えないところへ走って行った。
厄介者を消した車内は、結束していた。言葉は交わさなくとも、彼らの言いたいことは分かる。青女に対して、或いは僕に対して、思っていることは同じですよ、と言いたいのだろう。彼女は、強硬な代弁者に過ぎなかったのだ。学園前駅で、事を知る古参は皆降りて、残るは青女と二人だけになった。
「ありがとうございます。思ってたこと、言ってもらって。」
「いえ、僕も思っていたことですから。あんなに腹立たしい人たちは久しぶりです。でも、あそこまで責め立てて、今になると実際ちょっと可哀想な気もしなくもないかな、と思います。」
最低限の気を使って奴らを諭したのは、少しはそんな良心があったからだ。
「そうですか? 私には、彼女たちが傲慢に思えて仕方ありません。乗り間違えたのは彼女たち本人なんだから、この電車についてつべこべ言う筋合いは無いと思うんですが。」
聞くと、彼女はどうやら、この電車の存在を否定されたようで、嫌だったらしい。
「快速急行って、鶴橋出たら、もう生駒じゃないですか。だから鶴橋で扉が閉まった瞬間、全員奈良県民なんだ、っていう一体感を感じてしまって。同郷っていうだけで、特別な何かは無いんですけど。彼女たちが、なんだか私たちを小馬鹿にしたように思えたんです。」
「現にあの子たち、特に声がでかい方、彼女は小馬鹿にしてたじゃないですか。あの最後の目つきとか。」
「ほんとそうですよね。注意されて、あの態度はちょっっとねぇ……。あと、あんまり関係ないかもなんですけど、私密かに彼女たちに名前付けてて。」
くすっと彼女は笑う。
「うるさい方が、しゃべるじゃが芋で、マシな方が動く山芋。どうです? 似てないですか? 」
残念ながら、そう言われれば、そうにしか思えない。どれだけの悪意が有れば、人を芋に例えることができるのだろう。別に失礼だとは思わないが。彼女の中で、嫌悪感Aはしゃべるじゃが芋で、嫌悪感Bは動く山芋だったのだ。
「じゃが芋。言われてみればそうですね。似てるかも。ただあのじゃが芋は、どれだけ煮込んでも煮崩れないだろうなぁ。」
「いや、まず皮が相当厚いでしょうね。あと芽が異常に多いとか。」
酷い言われようだ。こき下ろすにも程がある。彼女の怒りは随分と深そうだ。感情をここまで剥き出しにできるのはなんだか羨ましい。だが正直、僕の心を占めるのは、嫌悪ではなく、羨望でもない。それは彼女に対する若干の好意だった。もののけのように獰猛で、油絵のように鮮やかな、まだか弱い好意を、抱いていることには違いなかった。彼女の方も、そうだといいが。
西大寺駅で降りる予定だったが、彼女が降りなさそうだったので、そのまま空いた席に座った。ここで別れるには早すぎる気がした。なんの脈絡もなく出会って数十分の他人と、友人のように並んで話しているのが、非現実的過ぎて、ふと我に返ると受け入れ難い。緊張はない。あるのはただ罪悪感だけだ。誘拐犯とはこんな気持ちなのだろうか。言葉を重ねるうちに、自分の中の、揺らぐものに気づいた。今、彼女を欲しいと思った。名前も、年齢も、住所も知らない。ただ数十分、一つの運命共同体に属していただけの存在なのに。レールのポイントが切り替わるみたく、一気に僕の中のすべての粒子が、彼女の方へ向かい出した。
「奈良に住んでらっしゃるんですか? 」
と訊かれた。違う。僕は西大寺に住んでいる。奈良に用事などない。用があるのは、君だ、と言おうか。彼女は不審に思わないのだろうか。唐突過ぎるのは危険だ。やめよう。正直に、順を追って話せばいい。
「実は、西大寺に住んでいるんです。だから、さっき降りなきゃいけなかったんですが、もう少し、貴女と話してたくて。すみません。」
彼女は少々固まったが、了承済みだと言わんばかりの笑みを浮かべ、
「私も、貴方ともう少し話したいです。」
と俯いた。咄嗟に話題を思いつかないので、考えずに思っていることをそのまま訊く。
「でも、ちょっと疑問なんですけど、生駒駅で、彼女たちに、同じホームで待ってて、って言ったんですか? 向かいのホームじゃないと、鶴橋方面は来ないじゃないですか。」
出来るだけ優しい口調で言う。本当に疑問だったから。そしたら、彼女は、急に笑い出して、
「私、生駒市民なんです。最寄りは、東生駒。この時間帯のダイヤは、普段使ってるので、大体把握してるんです。この電車のあとは、東生駒行きの普通が来る。さらなる罰ってわけじゃないけど、それに乗せてやろうと思って。準急までしか停まらない終着駅で降ろされて、また準急に乗るでしょう。その頃には、騙されたって気づくかもしれないけど。彼女たちの能力からして、途中でもう一度乗り換えるなんてことはしないだろうから、鈍行のまま、大阪に行くかなって。ちょっとした、出来心? のようなものです。でも悪いとは思ってませんよ。」
物凄い復讐心だが、彼女の行為が正しいかどうかより、彼女の降りるべき駅は生駒駅だったことが、頭を駆け巡る。彼女はどうして生駒駅で降りなかったのか。どうして、奈良まで来ているのか。もしかすると、僕と同じ理由なのかもしれない。奈良駅に着いて、扉が開く。
「君に、最後訊きたいことがあるんですけど。」
「何ですか? 」
「今君は、僕と同じことを考えているんじゃないですか? 」
「……着きましたよ。もう駅に。」
終着のアナウンスが流れたあとで、
「最後……、じゃないです。」
と呟いた。
それ以上彼女は何も答えなかったが、その一言を僕が最も都合のいいように拡大解釈して、彼女の右手を握った。そして開いた扉から出る。扉は閉まらない。終着駅だから。僕は、難波でこの電車に間に合わせてくれたことを、鶴橋で嫌悪感コンビを乗せてくれたことを、そして彼女に会わせてもらったことを、感謝しなければならない。
そういえば今日は、鬱屈な日だった。