第二十七章第一節<Commander of Mirror>
薄暗い部屋の中で、唐突に何かを打ち据える音が響いた。それに重なるようにして卓上に置かれたカップとソーサーが鳴る。
押し殺した息遣い、そして激情の気配。指揮官卓に拳を打ちつけた格好のまま、<Dragon d'argent>八咒鏡師団長クレーメンス・ライマンは執務室にありながら激昂を露にしていた。
彼の前には、三人の中将と少将が直立のまま、眼前のクレーメンスをひたと見下ろしている。誰もが無言のままに不動の姿勢を取ってはいるが、その眼差しには動揺と混乱が見え隠れしている。
いささか乱れた銀髪を揺らし、クレーメンスは呪詛とも取れるほどに怒りを込めた言葉を吐いた。
「……クソったれが……」
原因は、彼の元に届けられた長距離通信であった。
活動可能領域<Iesod>に駐留していた工作部隊からの通信が途切れ、代わりに<Taureau d'or>第二騎士団元帥テレンス・アダムズより、部隊を捕虜として拘束したという通告が入っているというのだ。
<Iesod>の部隊がしくじったということもあるのだが、それよりも問題なのは拘留したという相手であった。
テレンス・アダムズ。彼の悪名は<Taureau d'or>内に留まらず、<Dragon d'argent>においても知る者が多かった。
テレンスにまつわる逸話は、そのほとんどが彼の持つ非情さを物語っているものであった。中には捏造によるものではないかと疑わしきものまであったが、まことしやかに囁かれているものの中でも有名な逸話がある。
それはまだ、テレンスが部下を持たぬ兵卒だったころのことであった。
彼の所属する部隊が圧倒的戦力差の戦闘に巻き込まれ、部隊は戦場において完全に分断された状況にあった。部隊長は徹底抗戦を指揮、無線機で各部隊にそれを伝えたのだが、テレンスの部隊においては弾薬が尽き掛けている状況であった。
だが軍隊において上官命令は絶対である。各自が死を覚悟したとき、テレンスは何と無線機を銃で破壊したのであった。
今の自分たちの状況を他から知る術はない、ならば無線連絡を聞かなかったことにすればよいと。軍曹ですら考えもつかなかったその行為により、テレンスの所属する部隊はそのまま戦場を離脱、無事に生還することができた。
結果として、生還出来たのはテレンスの小隊のみという結果になった。
自らのためなら上官すら斬り捨てる、そんな軍隊としては異例の逸話は、テレンスの有能さ以上に、冷酷さ、非情さを物語るものとして語り継がれていた。
そんな人間が元帥を務める、<Taureau d'or>第二騎士団に自分の部隊が拘留されたとすれば、師団長として、冷静さを欠いてしまうのも無理からぬことであった。
「クレーメンス師団長」
口を開いたのは、真ん中に立つ年配の中将であった。
「救助隊を編成いたしましょうか」
「莫迦を言うな」
クレーメンスは左眼だけで睨みつける。
「みすみす負け戦に行く必要なんざねえだろうが」
肘を突いたまま、じっと組んだ指を唇に当てて思索を巡らせていたクレーメンスは、やがて苦悩に満ちた声でうめくように呟いた。
「済まん……お前らの部下、見殺しにする結果になっちまったな」
「我等は軍人です」
年若い左の少将が、やや緊張した声でその謝罪を遮った。
「命を落とすことなど、とうに覚悟を決めております。なにとぞお気を病まれますことなきよう」
「は」
呼気を吐き捨て、クレーメンスは立ち上がった。
「俺は木偶と背中合わせで戦ってるんじゃねえんだ……そんな胸糞悪い言葉ぁ次聞かせてみろ、殺すぞ」
「……有り難きお言葉です」
頭を垂れる少将を見据え、クレーメンスは黙したまま再び思考をはじめる。
ヴェイリーズは<Taureau d'or>に奪回された。駐屯部隊も、無事ではないだろう。
しかし、こちらから打つ手は非常に限られている。
そもそも、膠着状態にある<Taureau d'or>に対し、これ以上軍事的な手段で優位に立つことは事実上、不可能だと考えられていた。両国間に絶対的な技術面の差異がない以上、そして明確な国力差が見られない以上、戦闘は必然的に消耗戦となる。
であるからして、<Dragon d'argent>の目的は<Taureau d'or>の殲滅ではなかったのだ。
<Taureau d'or>の弱点である、<射手座宙域の聖歌隊>事件。これまで軍部がひた隠しにしてきたものの、それが遺した傷跡はあまりに大きい。
唯一の生存者とされているヴェイリーズをこちらで保護し、情報開示の切り札として考えていた<Dragon d'argent>の計画は、しかし水泡に帰すことになった。
<Iesod>の施設からの定時連絡は二十六時間前から途切れている。
何等かの経路で情報が漏れ、<Taureau d'or>の攻撃によって破壊されたと見て然るべきであろう。
「奴等は間違いなく、ヴェイリーズを消してくるだろうな……」
眉間の皺を深く刻んで項垂れるクレーメンスの傍らから、電子音が鳴り響く。
「クレーメンス師団長、政務省より通信が入っておりますが」
「……聞いておけ」
「かしこまりました」
通信が途切れるのを確認すると、三人目の壮年の中将が低く言葉を漏らした。
「師団長、もし席を外したほうがよろしければ……」
「お前らに聞かせられねえことなんてねえよ」
二度目の通信が到着したのは、クレーメンスがそう言い切った直後であった。
声は同じ秘書の女性である。
「用件は」
回線を開くと同時に、クレーメンスは問いかける。
「政務省より伝令です。ヴェイリーズ確保失敗の件について、至急報告せられたし、とのことでした」
「……了解した」
「以上です」
二度目の通信の内容を、三人の部下はただじっと聞いているだけであったが。
ややあって老年の中将が口を開いた。
「どうか、お気をお鎮めください……そのようなことはないと信じておりますが、万が一のことがあれば」
「心配すんな」
とん、と老兵の胸板をクレーメンスは拳で叩いた。
「思念呪殺ができるFaculteurなんざそうそういねえからな。いくら腹が立ったとしたってそんな莫迦な真似はしねえよ」
「有難うございます」
一礼する老兵の肩に手を置き、クレーメンスは初めて、微笑を見せた。
「お前らのことは、誇りに思ってんだぜ? こんな俺についてきてくれるお前らをな」
「もったいないお言葉です」
「んじゃ」
椅子にかけてあった上着を手に取ると、クレーメンスは三人に背を向けた。
「ちょっくら行ってくる……留守番頼む」