第二十六章第三節<Journey to the Storm>
一歩一歩、何かを確かめるようにしてラーシェンはステップを上がっていった。
それは、すっかり見慣れた艦の光景。初めて乗り込んだのが一月前ということが、今となっては信じられないくらいに自分の中で馴染んでしまった、艦。薄く曇った金属の手摺に指を触れると、それは懐かしい感覚となって記憶を呼び戻してくる。
刹那の間、目を閉じてじっと回想に耽っていたラーシェンは、しかし気配を掻き乱す存在がいることを思い出し、追憶に身を浸すことをすぐにやめた。
見慣れた艦のそこかしこには、<Taureau d'or>の紋章服を着た兵士たちが銃火器を構えつつ、じっとこちらを威圧している。
何をするでもなく、何を邪魔するでもなく。
唯一つ確かなことは、これが形式の上でだけの「追放」であるということ。最低限の食糧と燃料だけの搭載を許可され、今しがたまで戦闘を繰り広げていた敵陣への転送など、ただの「追放」であるはずがない。
自分たちの手を汚さずに抹殺する、卑怯な手段による死刑であることは、誰の目にも明らかであった。
「終わったわよ」
溜息をつくラーシェンに、奥のドアから姿を現したフィオラが歩み寄ってくる。
「済まない」
「暴れるようなことはなかったからね、やっぱりなんていうんだろ……弟みたいなところ、あったから」
苦笑しつつも、フィオラは今しがた出てきたばかりのドアを振り返る。そのままの格好で、しばらく沈黙していたフィオラは、ややあって自嘲気味に笑って見せた。
「あの子の言う正義……結局、分からずじまいになっちゃったわね」
何と答えていいか分からずに、ラーシェンは所在無さげに視線を彷徨わせる。
「覚えてる? <Iesod>に着いたばかりのとき、あの子とあなたが大喧嘩したときのこと」
「……ああ」
「正直な話、あなたが羨ましかった……いつだってあの子はひたむきだったけれど、ああやって自分の考えてることや思ってること、全部を言葉にしてぶつけられたことなんて、なかったんだもの」
いつになく饒舌なフィオラは、何かから逃げているようでもあった。しゃべり続けていないと、その何かに追いつかれてしまうかのように。
「やっぱり女だからなのかな……私ともいろんな話をしてきたけれど、一番奥のところは、しっかりドアを閉めているみたいで、顔では笑ってるんだけど、絶対に見せてくれないところがあって」
フィオラの言葉はそこで途切れた。
まるで息継ぎを忘れた泳ぎ手のように、テーブルに手をついて肩で息をしている。
「……だから……」
俯いたまま、フィオラは歪んだ声を漏らした。指が曲がり、何かを強くもぎ取るような形をしたと思った瞬間。
フィオラの頭は、ラーシェンの胸元に押し当てられていた。背に回した手に力が込められ、外套を強く握る。
「……ごめんなさい」
押し殺した、嗚咽の混じる声がくぐもって聞こえてくる。
ここからでは、フィオラの顔は見えない。見る必要などなかった。
「あいつらの前で、涙なんて見せたくないの、だから……ごめんなさい、お願い、だから、もう少しだけ」
「……お前も、しばらく一人になるといい」
ラーシェンは艶やかな髪を慈しむように、フィオラの頭に手を置いた。しゃくりあげる痙攣は、最早堪えきれないほどに強く激しくなっている。
ラーシェンはそのままフィオラの肩を抱いたまま、客室に続く廊下へとゆっくり、歩き出した。
「ほらよ」
どん、と目の前に置かれた荷物を見て、メイフィルは目を丸くした。
それは、自分が愛用していたバッグであったからだ。
かなりの重量があるそれには、父親から譲り受けた旧式の端末、メモリースティック、光学記録ディスクなどがぎっしりと詰まっている。救出のために赴くときも、片時も手放さなかったそれは、しかし艦を<Taureau d'or>に接収されたときに検閲のために奪われてしまったものと考えていたのだ。
それが、どうしてこの場所にまだあるのか。メイフィルは届けてくれた操縦士の男を怪訝そうな顔で見上げた。
「……どうして?」
「おいおい、俺はあんたの宝物を守ってやった男なんだぜ、礼の一つでも欲しがったッてバチは当たらねえや」
笑って見せる男の態度に、メイフィルは疑問を問いかけるより前にするべきことがあることに気づく。
「あ……あの、ありがとうございます、ごめんなさい、そういう意味じゃないの、でも」
「こいつは俺らの船だぜ? たかだか一週間程度奪われたくらいで見つけられるような柔な隠し場所なんざ作っちゃいねぇよ」
メイフィルはそっとバッグを撫でてから、蓋を開いてみた。
中身はぎっしりと自分の整理しておいた配列どおりに収納されている。何かが引き抜かれていたり、取り上げられている隙間はない。
念のために分厚い携帯用のコンピュータを取り出し、机の上で開いて電源を入れる。緑色の液晶画面に光が灯り、いつもと変わらない起動画面が映し出された。
何処にも異常はない。
「ありがとうございました」
「いいってことよ」
脂に黄色く染まった歯をむき出しにして、男は笑いながらブリッジを後にした。
ほっと肩の力を抜くメイフィルは、ブリッジのメインモニターの前に座るラーシェンとフィオラに向き直った。
「これから行くのは、<Geburah>……ですよね」
「そうよ」
濡れたように美しい髪を揺らし、フィオラは頷いた。
「でも、よかったです、みんな無事で……」
眼鏡の奥のフィオラの瞳は、何処までも濁りがなかった。
「そうね」
フィオラの相槌には、やや間があった。
「あの、ラーシェンさん」
膝を立て、じっとモニター越しの宇宙空間を見つめているラーシェンに、メイフィルはやや躊躇いながら声を掛ける。
「私その、最後に、ヴェイリーズさんに会えなかったんですけど……その、何か言ってませんでしたか」
「一緒に旅を続けられないのが残念だと言っていた」
「そう、ですか……」
メイフィルは視線を膝に落とす。
艦の加速度が上がってきている。もうすぐ、回廊に転送され、<Geburah>へと連れて行かれるのだ。
メイフィルの様子を見ていたフィオラは、くすりと微笑を漏らし。
「なぁに? 何か気になることでもあるの?」
含みのあるフィオラの口調に、ぱっと顔を上げたメイフィルは慌てて手を左右に振る。
「そんなんじゃないんです、ホントです、ただ、ちょっと気になって……」
「何よ、それじゃこっちが気になっちゃうじゃない、どうしたのよ?」
身を乗り出され、メイフィルは顔を赤くして、ぼそりと呟いた。
「……ラーシェンさんが出発するって言ったとき、私、これでみんなとお別れだと思って……それで」
「……それで?」
「クッキー、焼いたんです」
消え入りそうな声で、メイフィルは告白した。
「だから、その……確かにそのときも食べてもらったけど、改めて、何か……」
「そうなんだ」
フィオラは微笑んだまま、上を見上げた。
「食べてくれたんじゃ、ないかな」
上に顔を向けたままの姿勢で、フィオラは笑っていた。
いや、笑うことしかできなかった。顔を下ろし、メイフィルの顔を見ることなど、とても。
「メイ、今のうちに休んでおけ」
フィオラの目尻に光るものを見たラーシェンは、低い声で退室を促した。
「まだ本調子ではないはずだ」
「うん……」
コンピュータを閉じてバッグにしまい、ストラップを肩に掛けるとメイフィルは席を立った。
「ラーシェンさんもフィオラさんも、無理しないでね?」
そう言い残し、メイフィルはブリッジから出て行った。姿が消えたのを確認すると、フィオラは顔を下ろして目元を指で拭う。
「……ありがとね」
「気にするな」
ラーシェンは立ち上がると、フィオラを一人あとに残して、自室へと戻っていった。