第二十六章第二節<Cruel Fort>
淀んだ空気が、じっとりと足下でたゆたっている。
まるで不快な冷たさを持つ水が、静かに床に薄く溜まっているような、そんな錯覚を催させる場所であった。
どこにも通風孔などないはずなのに、耳を澄ませば微かに風の流れる音が聞こえてくる。それを証明するかのように、頬や手の甲など肌がむき出しになった部分に、空気の流れを感じる。
まるで幽鬼の指で撫でられているかのような、悪寒を伴うその感覚。明らかに不快なそれを振り払おうにも、独房の中でなど動ける場所はたかが知れている。その原因が、冤罪によって獄死した囚人の残留思念だと言われても納得が行くような、そんな空間であるのだ。
ラーシェンは背の低い寝台に腰を下ろし、膝の上で手を組んだままじっと目を閉じていた。
どうせ、目を開けていたところで映るのは暗い独房の様子だけなのだ。これで幾度目になるのだろう、と考えながら、彼はこれまでの経緯を想起してみる。
レシュ回廊を抜け、そして<Dragon d'argent>の艦隊を追跡していた我々は、そこで第二騎士団元帥艦隊と遭遇したという。
何故伝聞なのかと問われれば、そのときまだ自分の意識は戻っていなかったのだ。
ラーシェンのしっかりとした記憶が始まるのは、自分が寝台の上で確保されるところから。船に乗り込んできた第二騎士団の者たちに拘束され、そして無手のままここ、移動要塞<ユグドラシル>の独房へと監禁されたのであった。
メイフィル、ヴェイリーズ、フィオラ、カルヴィス。その他の乗組員も含め、どこでどのような処遇になっているのかは定かではない。少なくとも、自分が特異な待遇を受けていないことからも、大方は同じような独房に押し込まれているのであろう。
独房のドアを破って脱出すること自体であれば、Schwert・Meisterの力を持つ彼にとっては容易いことである。
しかし、それをしたところで、その後仲間たちと合流し、そして無事逃げおおせるだけの時間と余裕と戦力はないであろう。
だからこそ、ラーシェンはここにいた。
眠っているような、それでいて感覚の全てを励起させながら。そのため、たった今、この自分がいる独房へと近づいてくる足音もまた、充分に彼の聴覚に捉えられていた。
奇妙なことは、その足取りが微妙に弱いことであった。
これまでこの独房を訪れた人間のそれとは明らかに異なる。大半が居丈高に、これ以上ないほどに自分の存在を知らしめようとしていたのに対し、今聞こえてくる足音には迷いがあった。
さして長くない廊下は、あっさりと訪問者の到着を促した。
分厚いドアの上に取り付けられた覗き窓の蓋が開く音がして。
「ラーシェン・スライアーだな」
聞いたことのない声であった。
そのままの姿勢で顔を上げると、そこには壮齢の男の顔があった。
その双眸だけで、ラーシェンは訪れた男がこれまでの訪問者とは限りなく異なる人種であることを察していた。深い蒼の眼差しは、こうして独房に囚われた自分を見下ろしながら、同時にそこには敬意を含んでいた。
こうした境遇の人間に対し、敬いの念を向けられる人間は少ない。
無言で見つめ返すラーシェンに、男は言葉を続けた。
「私は<Taureau d'or>第五騎士団大将セヴラン・ファインズだ」
その次の言葉までには、やや間があった。
「君たちの処断が決定した。ラーシェン・スライアー、メイフィル・エルツェット、フィオラ・マグリエル、その他の乗組員は第五活動可能領域<Geburah>まで移送後、切り離しを行う。また今後十年間の、第四活動可能領域<Chesed>への立ち入りを禁ずる」
まるで判決文を読み上げるが如くの、無表情な言葉。
追放という処遇は、考えていたよりもはるかに軽いものであった。
だからこそ、気に掛かる。
問題は、いや処遇のもっとも重い箇所は、そこではないはずだ。ラーシェンは頷くことも、相槌を打つこともせず、じっとセヴランの顔を見上げたまま動かない。
「なお、ヴェイリーズ・クルズについての処断だが」
セヴランの気配に、激しい気の乱れを感じる。
動揺しているのだ。しかし、何故。
お前たちは、騎士団の頭領は、<Taureau d'or>と王家側の人間であるはずなのに。微かに震える語尾を隠そうとでもしているかのように、一度唇を強く引き結び、そして。
「<Dragon d'argent>より、無意識下の呪的洗脳の可能性を鑑み……薬物による処理が決定した……!」
処理。
その言葉を聞くが早いか、ラーシェンの躰は思考より早く動いていた。鉄格子を掴むと、ドア全体が揺れて大きな音を立てる。詰め寄れるだけの距離を近じさせ、ラーシェンはセヴランの表情を睨みつける。
「……処理、だと」
「脳及び、各随意筋の最小機能を残した薬物破壊……それが、最終決定だ」
セヴランは視線をラーシェンから離し、足下に落とす。
握りこむ掌に、冷えた格子がちりちりと冷たい。だがそれとは裏腹に、ラーシェンのこめかみは焼き鏝が押し当てられたかのようにどくどくと熱く疼いていた。
「確認する手段など、いくらでもあるだろう! それを何故しない!」
最も容易く、そして最も残酷な方法を、何故選ぶ。
順当に考えれば、容易に薬物を使用するという判断をするほうがどうかしているのに。
何故、誰も異論を唱えない。
「……議場で異議を申し出たのは、私と、第四騎士団元帥のみ」
ぎり、とセヴランの奥歯が軋る。
「六騎士団中、四位の同意によって成された最終決定は、もう覆せない」
無念は、この男も同じなのだ。流浪のSchwertMeisterと騎士団大将。立場に大きな隔たりがあってもなお、その意とは裏腹に動いていく現実に、成す術がないのだ。
ならば。一体誰が、ヴェイリーズの命を救えるというのだ。
「……口封じだな?」
重く垂れ込める声が、セヴランを打ち据える。決して口調は激しくはないが、その底に込められた激情には、人一人の意志を圧するだけの力があった。
「ヴェイリーズは射手座宙域の聖歌隊の生存者……だからこそ、追放刑だけでは終われなかった……そうだな」
問われたセヴランは、小さく首肯する。
「貴様等はいつもそうだ、いつだって……」
「……済まない」
セヴランは一礼し、そして覗き窓をそのままに、くるりと踵を返す。
今、自分はここにいるべき人間ではないのだ。
しかし、ここであの窓を閉めることは、権力という殻で弱者を封じ込めることをも意味する。セヴランが窓を閉めなかったのは、今の彼にできる、せめてもの好意であったのかも知れぬ。
もっとも、その程度で、何かを変えられるわけもない、のだが。
来た道を戻るセヴランの歩調は、一歩ずつが凄まじい葛藤によって踏み出されていく。
その背後から、腹の底に響くような震動が聞こえた。
それは恐らく、あの男の拳が壁を打つ音であろう。
床すら震わせるその一撃は、自分を含めた<Taureau d'or>への怒りなのだ。
ぐっと指を握り締め、セヴランは行き場のない怒りを堪えつつ、牢をあとにした。