第二十四章第三節<Errand of the Dark>
銃声を聞きながら、ラーシェンは太刀を構える。
眼前にそびえるのは、異形の鬼。<Dragon d'argent>のセキュリティシステム、<聊斎志異(りょうさい・し古き書に綴られたと思しき怪である鬼を、侵入者排除のユニットとして召喚使役するシステムであった。
だが、それはいまだ実験的に設置されたものであるらしく、システムとしては完全に機能しているとは言いがたかった。
その理由は、鬼の行動理念を完全に制御しきれていないということである。同族以外の全ての眷属への絶対的敵意と怨念によって衝き動かされる鬼等の行動原理は即ち、修羅。侵入者以外にも、この施設にいる同胞にすら牙を剥くユニットをひとたび召喚させてしまえば、施設内は文字通り阿鼻叫喚の渦と化す。
しかも、召喚のきっかけが完全自律プログラムに一任しているという欠点が、浮き彫りになったのであった。
牙の間から、蒸気のように白く濁った呼気を吐き出し、鬼がねめつける。
ラーシェンは、鬼の視線を受け止めることなく視線を落とす。鬼の瞳からは、強力な暗示が見るものの精神を束縛する。恐慌と拘束、二つの呪詛に縛られ、獲物は鬼の牙と爪で命を奪われるまで、指先一つ動かすことは出来なくなる。
ラーシェンが視線を逸らした、その一瞬をついて鬼が腕を振り上げる。
後ろにはフィオラを庇い、さらにその後方には光の柵。左右どちらに逃げようと、鬼の攻撃圏内から逃れることはできぬ。
爪先から滴る鮮血に酔い痴れた鬼が、超人的な膂力を解放しようとしたときであった。
ラーシェンの袖が翻り、裾が弧を描く。腰の回転と上半身の捻りだけで、頭上にて爪と太刀とが交錯する。斜め前方に突出する形の軌道は、確かな手ごたえと共に紅をぶちまける。
続いて落下音。ラーシェンの爪先の前には、一抱え以上もある鬼の腕が肘から断絶され、転がっていた。
肉食獣のような唸りを上げ、退く鬼。急速に輪郭を失わせ、霧となって逃亡を図ろうとする。
「無駄です」
身を隠していたのは、直接攻撃から身を護ると同時に、最良の間合いをもって術を行えるようにするため。
「南莫 三曼多 勃駄南 阿味羅吽欠」
人差し指の先だけを合わせ、やや膨らみを持たせた合掌の印を結びつつ、フィオラが真言を唱える。
実体を失い、希薄になった鬼には物理攻撃は通用しない。
これ以上の追撃が出来ぬラーシェンに代わり、フィオラの印から光明が溢れる。
通路に満ちた白光に包まれ、瘴気と化した鬼が苦悶の声を上げて浄化される。
光はなおも数秒間、空間に留まってから、ついでゆっくりと掻き消えていく。だが残滓がまだ消え去らぬうちに、フィオラは震える声で告げた。
「油断しないでください、大日如来の法が効かぬ鬼が、まだ」
間断なく降り注ぐ薬莢。どれだけ引き金を引いても、どれだけ特殊弾丸を撃ち込んでも、勝てる気がしない。
焦燥は恐慌へ、そして混乱へと容易に変貌する。だからこそ、今は攻撃をやめるわけには行かないのだ。
「撃て、撃つんだッ……考える暇があったら撃てェ!」
カルヴィスは空になった弾倉を交換する。
だが、それを装填する動きが、一瞬止まった。
これで、最後か。自分はこれまで、指揮を執るほうが多かった。ということは、どう楽観的に考えても、そろそろ部下たちの弾薬も尽きかけているということだ。
「莫迦野郎、撃てって言うのが分からないのかッ」
自らの不安をかなぐり捨てるように、カルヴィスは引き金を引く。雲霞のように押し寄せてくる鬼は、銀弾を食らうと霧となり、壁に溶けるようにして姿を消す。
そして後方に控えていた無傷の鬼たちが、ゆっくりと迫ってくるのだ。
直接攻撃しか手段のない自分たちは、霧となった鬼を追撃することができない。
だからこうして撃っていれば、少なくとも近づかれることはなかったのだ。
そう、弾薬さえあれば。
バリケードをつくるようにして前線に立っているのは、自分を含めて五人。
残る隊員の弾薬は既に尽きた。
迫ってくる鬼は二体。その眼球を打ちぬき、分厚い胸板を穿った銃弾の壁は、唐突に途切れた。
「……隊長」
「なんだ」
「……申し訳ありません、これで、最後です」
死を眼前に迎え、声を振り絞る部下に、カルヴィスはちらりと顔を上げる。
「ご苦労、下がれ」
カルヴィスは四人の部下を後方に下げると、やおら立ち上がった。
残るは、自分の銃に装填された、この残弾のみだ。
ゆっくりとした足取りで迫ってくる鬼たちを見据え、カルヴィスは声帯を引き裂かんばかりの絶叫を吐き出した。
「来やがれ化け物どもッ! ただじゃあ死んでやらねぇからなぁッ!」
銃口を向け、引き金に指をかけ。
ずぅん、と腹の底に響く震動があったのはそのときであった。
施設の何処かで爆発が起きたのだろうか。
そんなことで鬼の侵攻が止むわけがない。カルヴィスはトリガーを引き、残弾全てを鬼に叩き込んだ。
雷鳴のような銃声が轟き。そしてそれは、呆気なく止んだ。
金属音だけが鳴るその銃を下ろし、カルヴィスは微笑んで見せた。
「お嬢ちゃん、ラーシェン、フィオラ……勘弁、な?」
ずぅん。
その瞬間に何が起きたのか。
鬼の爪で切り裂かれたにしては、痛みが少なすぎる。否、あれだけの爪を受けたならば、まず命はあるまい。
吹き付けてくる風、口の中に広がる血の味、そして唾液に混ざる石片。数刻ののち、はじめて自分が倒れているのだということ認識する。
腕に力をいれ、躰を支えつつ起き上がる。鈍痛はあれど動けないということはない。
身を起こし、名を呼んでみるが、反応はない。あれだけ通路にひしめいていた鬼たちも、すっかり何処かへ消えうせていた。
混乱する頭の中、天を仰ぐ。空が見える。サーチライトがこちらの様子を探るように幾度か通過していく。
上空からの攻撃を受けたのか、と言う考えが脳裏を過ぎった瞬間であった。
漆黒の船体の横に光る、金色の雄牛の紋章。あれは、紛うことなき、<Taureau d'or>の紋章である。
ごとん、と音がして、黒衣のラーシェンが立ち上がる。肩にはヴェイリーズ、そして反対の手にはフィオラが額から血を流しながらも抱えられている。
時間が経つにつれて、次第に事態が理解できてくる。先刻の衝撃は、自軍の艦船からの対地攻撃であったのだろう。
それにしても、よくぞ見つけてくれたものだ。
カルヴィスは切れた唇の血を拭い、最早用を成さなくなった銃を左右に振ってライトに答える。
助かったのだ。あとは、あの船からの救助を待つだけでいい。光の柵も、鬼たちも、ここにはいない。
全てが悪夢のような感覚の中。唯一の希望が、しっかりとした存在感を持って、今。
「お前たちが、侵入者か」
男の声がした。
カルヴィスとラーシェンが、同時に振り向いた。濛々と立ち込める砂煙の中、先刻までは誰の気配もしなかった場所に、男が立っていた。
深緑の長衣と、長い髪。およそ見たこともないその衣装を纏った男は、右手に細身の剱を握っている。
視線が交錯した瞬間、カルヴィスは吐き気を催すほどの気迫を受けた。
たとえ自分がランチャーグレネードを持っていたとしても、その銃口を男の頭に押し当てていたとしても、この男と戦いたくはない。
戦闘能力では推し量ることのできない、圧倒的な差が、カルヴィスの神経を揺さぶる。
「何者だ」
Schwert・Meisterとしての精神力で耐え抜いたラーシェンだけが、声を発することができた。
「我はL.E.G.I.O.N.」
低い声が、その名を告げる。
L.E.G.I.O.N.
「十二の使徒の一人、バスティアン・フォーゲラー」
幾世代もの間、姿さえ見せなかった、あのL.E.G.I.O.N.が。目的や思想、否、存在意義さえも謎に包まれていた、あのL.E.G.I.O.N.が。
今こうして、目の前に姿を現している。
どうして、この地で、自分たちと対峙しているというのか。ただ存在するだけで圧倒的な気迫を放つほどの異才が。
「その男、貰い受ける」
「断る」
ラーシェンはフィオラの手を離し、柄に触れる。
断れば、男は間違いなく牙を剥くだろう。
男一人を抱え、そして動ける者は自分しかおらず。この凄まじく不利な状況で、ラーシェンはあの男と戦おうというのか。
バスティアンは髪を掻き揚げ、そして繰り返した。
「もう一度、警告をする……ヴェイリーズ・クルズ、その男を渡せ」
「くどい」
ラーシェンが二度目の警告を退けたときであった。
次の瞬間、心臓が数秒、鼓動を停止した。
がくりと膝をつくカルヴィス。
それが自分に向けて放たれた殺気でないことはわかっている。 だが、その余波がこれほどとは。
冷たい汗が全身から噴出す感覚と共に、カルヴィスはバスティアンを見た。
先刻までとは、異なる場所で。
「……成程」
声は恐ろしく近くから聞こえた。
次いで、糸が切れたように倒れ伏すラーシェン。バスティアンは、たった数秒の間に、距離にして数十メートルを誰にも気取られることなく移動し、そして。
ラーシェンほどの使い手を、一瞬にして斬り伏せたというのか。
バスティアンは意識のないラーシェンから、ヴェイリーズを奪い、そして。
「貴様等には用はない……逃げるというならば、好きにしろ」
「て、めェ……」
かろうじて声を振り絞り、カルヴィスは指で瓦礫を押し退ける。
「そいつを……何処へ……」
「これは白銀の龍に戻す。黄金の雄牛にはまだ、過ぎた荷物だ」
とん。
カルヴィスは、額に何かを受けた。
その瞬間、彼の意識は呆気ないほど容易に、闇に堕ちた。