第二十三章第二節<Summon the Ogre>
つい先刻まで甲高く耳障りに鳴り響いていた警報が、不意に止んだ。
小刻みに曲がりくねる通廊のあちこちで銃撃戦を繰り広げていたカルヴィス隊は、警報の停止に逸早く反応する。
だが、自分たちはいまだこうして交戦状態にあるのだ。警報を鳴らす必要がなくなったわけではあるまい。それでも戦闘を続けていた警備兵らも、ややあって抵抗が一時的にやんだことから、警報の断絶に気づく。
唐突に無音と化した通廊。それが如何に奇妙な状態であるかを示すかのように、双方は攻撃行動を止め、じっと成り行きを見守っている。
これが単なる警報の断線であったのならば、すぐにでも回復してくるはずであろう。しかし、数秒が数十秒、一分、数分と時間が経つにつれて、それが意図的に引き起こされた警報断絶であることを理解させてくる。
カルヴィスはまるで新鮮な酸素を求めて喘ぐように、天井を見やる。無音の空間に、凄まじいほどの緊張が満ちる。
「……隊長」
「黙ってろ」
不安に押し潰されそうになる部下の言葉を、カルヴィスは制した。神経をすり減らすような重圧の中、頬を汗が伝う。拭うことも出来ず、ただ眼球だけを緊張させ、周辺の気配を探っていた時であった。
ふと、視界を影のようなものが過ぎる。
「……?」
それが錯覚であったかどうかを確かめるよりも前に、影は視界から掻き消える。
まるでそれは煙のように通路を横切り、そしてすぐ近くの壁に染み込むようにして消え。
だがそれを見たカルヴィスの胸中で、警鐘がけたたましく鳴り始める。何か、とてつもないものが迫ってきている。
「……全員、後退準備」
だが、部下が動き出すよりも早く、異変は起きていた。
先刻影が消えたと思しき場所に浮かび上がる、不可思議な紋様。縦長の長方形に描かれた、黒い紋様から伸びてきたのは、一本の腕。筋肉質な毛むくじゃらの腕は、長く伸びた爪で空を掻きつつ、警備兵の頭上に迫る。
あまりにも異質なそれを目の当たりにした部下の一人が、詰まった悲鳴を漏らす。
だが当の警備兵らはいまだそれに気づいてはいないらしい。
腕の持ち主は一度大きく振り上げ、そして。
衝撃音と破砕音が響き、そしてやや遅れて悲鳴と銃声。密集陣形を取っていた只中に、固められた拳による一撃が襲い掛かったのだ。
まず第一撃で数人が即死に至り、また唐突にもたらされたそれへの混乱の中での対応によって、流れ弾に当たってさらに数名が死亡。
「隊長、あれは……」
「侵入者対策のセキュリティプログラムか……?」
だが、侵入者排除を目的としているのに、何故<Dragon d'argent>の警備兵らに攻撃を仕掛けるというのだ。
そして、あれは一体。
混乱するカルヴィスの目の前に、まるで答えをもたらすかのように、それは現れた。
半裸の獣のような顔をした巨躯であった。ぼやけた輪郭とは裏腹に、強烈な存在感と威圧感をもって出現した巨大な人間。
否、それは最早人ではなかった。振り乱した髪、濁った瞳、尖った牙。体毛は針金のように太く、筋肉は恐ろしく隆起している。
先刻の煙が、このような魔物に姿を変えたというのだろうか。見る間に警備兵の小隊を殲滅し終えたそれは、ぐるりと頭をこちらに向ける。
「……全部隊、兵装展開……Concurrence・ Fantome」
Concurrence Fantome、すなわち討霊兵装。
対人戦闘兵装とは根幹を成す概念から異なるそれは、こうした辺境に留まらず、戦略兵器として妖魔や式神、または使い魔や英霊召喚などと言った霊式兵器への対抗手段として、開発されたものであった。
視界保持のためのゴーグルには特殊なフィルターを施し、視覚的な魔術効果により生じる精神的な混乱、恐慌、幻惑等を打ち消す。情報解析のほとんどを視覚に依存している人間は、たとえ聴覚や嗅覚からの伝達があろうとも、視覚が安定さえしていれば精神を操られることは少ないからだ。
また、防弾ジャケットに内蔵された装甲に一定の信号を送ることで、魔術的攻撃に対して耐性を付加させることができる。妖魔や式神の操る呪弾や炎、氷、呪風、雷撃といったものに対して耐性を得ることができるということは、それがいささかなりと言えども非常に有効なものであった。
そして何より、銃火器の設定にも変更は加えられる。
カルヴィスの号令とともに、部下はまず銃器のマガジンを取り外し、青いベルトが巻かれたものと交換している。
弾頭部分を聖別銀でコーティングしたその銃弾は、破壊力こそ通常の弾丸と同じであるものの、不浄なるもの、魔物に対しては絶大な効力を有する。受肉している場合は再生不可能な傷を、非実体には再構築不能な論理式攪乱を与え、魔物の絶対的優位性の原因たる再生機能を妨害するのだ。
視覚、防禦、そして攻撃。それら全てを対心霊戦闘態勢に移行させた隊員は、異形に銃口を向け、命令を待つ。
本体は幻影、しかし攻撃は実体。その相反する能力を持つ相手に、並の攻撃手段で通じるはずもない。
だが、撃退せねば生き残ることは難しいのだ。
そのときであった。
唐突にカルヴィスのポケットに収められた通信機が着信する。
「……誰だ!?」
「俺だ」
ラーシェンの声が、ノイズの中からかろうじて聞こえてくる。
「ヴェイリーズの救出は成功した、が……どうやらトラップにかかったようだ、済まん」
「こっちにも出やがってるぜぇ、ちぃとやばいヤツがな」
獲物を追い詰めた喜悦の笑みを異形が浮かべた瞬間。
「……てぇッ!!」
カルヴィスの号令一下、掃射が開始される。
高速で連射されていく弾丸が着弾するとともに、異形は苦悶の咆哮を上げる。頭を押さえつつ、身悶えを繰り返しながら壁の向こうへと消えていく。
「んじゃまあ、これからズラかってもいいってことだな」
「ああ」
「メイフィルに撤退経路を検索してもらう。それまで待ってろ」
カルヴィスが通信を切るや否や、そのタイミングを待っていたかのように通信機が第二の着信を告げた。
「カルヴィスさん、ダメです、トラップが解除できません」
「お嬢ちゃん、それよりも頼みがある」
メイフィルの言葉を遮るように、カルヴィスが話を切り出した。既に部隊は撤退を開始している。これより先は、今まで以上に注意を払わねばならない。
「ラーシェンがヴェイリーズ救出に成功した。最短の合流経路を洗い出してくれ」
「了解」
肩と顎で通信機を挟みながら、メイフィルはまだ操作可能な端末のキーボードを十本の指で怒涛のように打ち鳴らしていく。
施設全体図から検索をかけ、現在地を割り出し、同時に監視モニターから各警備配置を読みとり、脳内に刻み込む。
凄まじい処理速度で頭脳を動かしながら、複数のルートを設定、記憶、脳内シミュレートを行い。
「現在、施設内の霊体は総計十六体です。この数が増えないうちに合流を果たすには、これから百五十秒以内に第八層まで上昇する必要があります」
移動経路を、警備兵との遭遇確率ならびに霊体との交戦確率が最も低いタイプに選別する。
「第八層までの移動経路……経路は……」
だが、その選択は容易ではなかった。次々に移動を繰り返す敵に対し、継続して安全圏を確保できる空間など、あろうはずもなかった。
それでも、なんとか警備兵だけなら対処は出来る。
しかし、非実体のために空間的条件に拘束されずに移動ができ、なおかつ戦闘能力が非常に高い異形が十六体ということは。
「どうした、お嬢ちゃん!?」
「……ごめんなさい……」
不可能だ。脱出することは、不可能だ。交戦をしていれば、他の警備兵や異形が迫る。結果として、乱戦に陥る。残存兵力で、乱戦に耐えうることは、困難を極める。
「……ごめん、なさぃ……」
「お嬢ちゃん」
スピーカーの向こうから、いつもと変わらないカルヴィスの声が聞こえる。
「ラーシェンのヤロウの居場所だけでも、教えてくんねえかい?」
そのときに、何を口にしたのか、覚えていない。
ラーシェンとフィオラは第十二層B-5区画。それをどのように告げたのかさえ、記憶になかった。
気づけば接続が切れた通信機を膝に乗せ、躰を二つに折ってむせび泣いていた。あれからどれだけの時間が経ったのかも分からない。頬を濡らす涙をそのままに顔を挙げ、モニターを確認する。
カルヴィスの部隊は、先刻よりほとんど変わらぬ位置で警備兵と交戦中だ。
そのモニターに、影が横切る。
来たのだ、異形が。通信機を手に取り、メイフィルは動きを止める。
前方から二体、後方から一体、左側方から三体。
数が多すぎる。
指が折れるほどに強く握りこみ、そして嘆く。
私の技術では、<Dragon d'argent>のセキュリティブロックを突破することができない。
助けて、父さん。
メイフィルの指が無意識に、父の名をキーで打つ。
>password victor eztheth
甲高い電子音が、メイフィルの耳に飛び込んできた。
はっと視線をモニターに戻す。
>password accepted. security system is locked...please enter commands.
理由を考えている暇はなかった。恐れている時間もなかった。
即座にメイフィルは自分の端末にシステムを直結。道教系列に該当するアプリケーションの中から、禁呪を選択してアップロード。セキュリティシステムに競合させるディレクトリに構築させ、展開。
>Dao-jiao type forbidden spell is developing...
画面に表示された起動までの残り秒数が減っていく。モニターの中では、今まさに数体の異形が同時に出現しようとしている。
お願い、間に合って。
>summoning system is freezed. Resttime is 1200seconds...
奇跡は起きた。