第二十三章第一節<Seals of Warrior>
冷たい壁に、ペンキをぶちまけたように血糊が飛び散った。ぱたぱたと固い何かがぶつかる音とともに咲いた飛沫は、まるで凍りついたように様々な楕円を描いている。
既に物言わぬ骸と化した警備兵のポケットを探っていたラーシェンは、一枚の光学式カードを取り出した。極薄のホログラフを幾重にもコーティングすることによって、複雑な光線反射角度から一定の図案を描き出すそれは、識別誤差が天文学的数値に一度というものであることから、もっぱらこうしたシステムセキュリティに用いられることが多かった。
袖でカードに付着した血液を拭い、眼前のドアに歩み寄る。
メイフィルとカルヴィスからの通信より、ヴェイリーズが収容されていると思われている場所はおおよその判別ができていた。
目の前に立ち塞がっているのは、これまでのものとは違う、分厚い合金製の扉であった。無理に破ろうとすれば不可能ではないが、恐らく太刀は激しい損傷を強いられるであろう。
代替が利く刀であれば惜しくはないが、ここで武器を失う愚挙は犯したくはない。そして何より、ラーシェンの手にあるのはこの世界で三本しか所在が確認されていない、「太刀」であるのだから。
カードリーダーの前まで歩を進め、そしてラーシェンは背後を振り返った。
「フィオラ、何処か痛むか」
「平気よ」
言葉とは裏腹に、フィオラの声色は弱々しい。壁に手をついて躰を支えるフィオラの顔色は、まるで曇天を飲み込んだ巨人のように暗い。
「その向こう、なんでしょ……あの子がいるの……」
乱れた前髪の奥から、力なく微笑むフィオラ。予想以上に、式神を返されたフィオラのダメージは大きいようだ。
これでは、Facultriceの能力は愚か、普通に動くことすら困難であるようだ。
そこへきて、これからヴェイリーズを助けようというのだ。
どのような状態に置かれているのか、そもそもヴェイリーズの生死すら確認できない状態で。このままでは、戦闘不能の二人を庇いつつ安全な場所まで到達するまでの間、ラーシェンが一人で戦い抜かねばならなくなるかもしれないのだ。
だが、それでもやらなければ。ヴェイリーズの救出こそが、第一の目的であるのだから。
カードをスキャナに通すと、ランプが赤から緑に変わり、ロックが解除された。分厚い扉に内臓されたいくつもの施錠機能が次々に重々しい音を立てて解かれていく。
「行くぞ」
「……えぇ」
血の気の薄い顔をあげたときであった。
二人の視線の先で、扉は少しずつ内側へと開いていく。
強い光が、目を射た。
その先にあったのは、巨大なポッドであった。透明な容器の内側には、四肢に無数の拘束具を取り付けられたヴェイリーズがいた。
「ヴェイリーズ……あぁ……!」
まろび寄るフィオラ。その傍らをゆっくりと進むラーシェン。
ポッドに取り付けられた機材に近づくにつれ、足が重くなるのを感じる。
それでも数歩を進み、そこでようやく悟った。
どうして、この程度の貧弱な装置でヴェイリーズを拘束しているのかを。
薬で眠らされているとはいえ、覚醒したChevalierとしての能力をもってすればこのような拘束など無きに等しい。だが、この異様な感覚のせいで、ヴェイリーズを捉える力の正体がわかった。
重力檻。
ポッドまではあと数メートルはあるというのに、既にラーシェンの足は引き摺るほどに重くなってきている。これだけ離れていてすら、ラーシェンの移動能力を半減させるほどの重力だ。中心部にいるヴェイリーズを包んでいる重力が一体どのくらいのものであるのか、想像することすらできぬ。
ずん、と鉛の詰まったように重い歩を床に叩きつけ、ラーシェンは意を決して太刀の柄に手をやった。
「ラーシェン……どうしたの」
「これ以上は近寄れない……重力が凄まじい。ここから斬る」
目標は無機物。周囲には物理障壁を生み出すだけの力場も感じられぬ。破壊することだけであれば容易であるはずだ。
だがそれには、ヴェイリーズを無傷にしなければならないという制限がつく。重力を生み出している機材だけを、またポッドに力を伝達しているケーブルだけを斬れば。
右肩だけを前に出した斜めの構えから、コートの裾が翻る僅かな間隙に、抜刀された刃が閃く。不可視の斬撃が空を裂き、機材とケーブルを断つ。
全身を圧迫していた重力が途端に緩み、そして幾度か火花を上げた機材が沈黙する。
「……ヴェイリーズ!!」
それまで黙って背後で見ていたフィオラが横倒しになったポッドにすがりつき、中のヴェイリーズを覗き込む。
薄い衣服だけを着ているヴェイリーズの表情は、眠っているようにも見えた。
ラーシェンはポッドの壁面に手を当てると、それを拳で打ち砕いた。強化樹脂の破片を手で払い除けつつ、フィオラは四肢に嵌められた拘束具を一つひとつ外していく。どうやら薬か何かで眠らされているらしく、大胸筋に包まれた胸はゆっくりと規則正しく上下している。
「よかった……」
安堵のあまり、その場にへたりこむフィオラの横で、ぐったりとしたヴェイリーズをラーシェンは肩に担ぎ上げる。
ずしりと躰を襲う重量感はかなりのものだが、このままにしておくことは出来ない。カルヴィスと通信が出来ればいいのだが、あちらの現在位置まで正確につかめているわけではない。
「行くぞ」
長居は無用。左手でヴェイリーズの背を支え、踵を返したときであった。
部屋の光度が、幾分落ちたように感じる。ざり、と破片を踏むブーツの音が、やけにくぐもって聞こえる。
「足を止めないで」
「……フィオラ?」
感覚の鈍化。それはつまり、躰が無意識に別の感覚を鋭敏にさせていることの代償。
胸中で警鐘がけたたましく鳴り響く。
「呪力が喚起されてる……来るわ、魔族が」