間章ⅩⅩⅡ<旧き戦胞>
漆の干菓子器に手を伸ばし、銀髪の女性は落雁を一つ、摘んだ。
薄緑色の落雁を口に含み、そしてゆっくりと咀嚼する。飲み込んだ女性の口元が、笑みに綻んだ。
「美味しいですね」
「ありがとうございます」
微笑んで会釈する女性もまた、美しく豊かな黒髪を結っていた。
だが、奇妙なことに黒髪の女性は瞼を閉ざしたままであった。穏やかな色彩の打掛を纏ったその女性は、瞳を閉ざしたまま指を伸ばし、器から干菓子を取る。
「貴女の庵はいつ伺っても、心が休まります」
銀の髪をした女性は、庵には似つかわしくない軍服を着込んでいた。
これより一ヶ月前、この庵に<Dragon d'argent>八咒鏡師団長クレーメンス・ライマンの嘆願書を携えて訪れた男たちを、穏やかに、しかし強い意志をもって追い返した女性は、しかし今度の客人は迎え入れたようであった。
しかも、その理由は純然たる好意であった。
銀髪の女性は、器を両手で包み込んだまま、ついと顎を上げて丸窓の外へと目をやった。
涼しい風が笹葉を揺らす音にしばし聞きほれてから、瞼を閉じて溜息をつく。
彼女の名は、マティルデ・ミーゼス。
<Dragon d'argent>八尺瓊勾玉師団長を務める女性であった。
「その言葉は、どのような賛辞にも勝りますよ……」
「やめて、アンジェリーク」
畳に指を突き、マティルデは前に身を乗り出す。
「そんな言葉遣いはやめて頂戴……昔からの仲でしょ、私たち」
「それはそうですが……」
「アンジェリーク」
マティルデは、ほっそりとしたアンジェリークの手を自分の掌で包み込み、まるで子どもに聞かせるような声色で呟いた。
「それとも私たち、もう、昔みたいに仲良くはできないの?」
「……あなたは、師団長になってしまった……私はもう引退した身、とても昔のようには……」
「そんなの関係ないわ」
躰を離し、マティルデは窓の外を見やった。
「……マティルデ」
見えぬはずの瞳を投げかけるアンジェリークは、一体何を見ているのだろうか。
「戦争が、始まるのですか?」
その問いに、マティルデはすぐには答えることができなかった。言い淀むその表情をまるで見ているかのように、アンジェリークは微笑む。
「いいんですよ」
まるで、その相貌は母親のように優しく。
「貴女は、昔から変わっていませんね……そういうところは、特に」
「来たんでしょ」
「ええ」
マティルデの言葉は、一月前の軍の来訪を意味していた。
「断ったんでしょ?」
「……はい」
今度の問いへの答えは、やや遅れた。
「それなのに、何を迷っているの?」
聞きながら、マティルデはその答えを半ば想定していた。
「あなたが戦争に行ってしまったら、この庵はどうするの?」
アンジェリークは口を噤み、そして俯いた。
憂いを帯びたその横顔に、マティルデはかけてやる言葉を持たなかった。他ならぬ己の発した問いによって引き起こされた憂いであるにもかかわらず、その感情を打ち消してやれる術がないのだ。
耳を聾するほどの轟音が、血に濡れた牙が並ぶ顎から放たれた。
大気を震撼させるそれを至近距離で浴びながら、勝色に櫻紋様をあしらった振袖姿の女性は、いささかも動じた素振りを見せぬ。ただ静かに瞳を閉じ、帯に挟んだ太刀の束に手をやりながら、女は玲瓏たる声で囁いた。
「我が名は天剱を名乗る者、<Dragon d'argent>正宗師団長アンジェリーク・カスガ」
アンジェリークを包囲する妖魔は、計五体。黄金のたてがみと焔の瞳を持つ、獣の妖魔。
威嚇が効果を持たぬと分かると、妖魔らはじりじりと間合いを詰めてくる。退くという選択肢は、妖魔らにはないらしい。
「……愚かな」
ぐっと柄を握り、アンジェリークは正面の妖魔を見据える。
戦いは避けられぬか。振り仰げば、頭上にて幾つもの光の華が咲いては散り、そしてまた生まれる。
「アンジェリーク!!」
左耳に装着した無線機から、戦友の声が聞こえてくる。
「あと二十分持ち応えて……ごめんなさい、攻撃が想像以上に……」
「急ぐ必要はありません」
腰を落とし、腕を振りぬく。
唇の間から薄く研ぎ澄まされた呼気が漏れると同時に、アンジェリークの周囲に刃の結界が生ずる。高速で繰り出される斬撃が重なり、様々な角度から襲い掛かる。
およそ動体視力の限界を超えるその攻撃の前に、妖魔は成す術がなかった。静かに納刀するアンジェリークの周囲で、次々に倒れ伏し消滅する妖魔。
「この周囲に放たれた怨念弾頭の収斂効率であれば、一時間は保ちます……ご安心ください、マティルデ」
「……ごめんなさい」
「いいのよ、貴女は軍人なんだから、もっと軍人らしく……ね」
獅子脅しの音が、遠く微かに、庵に届いた。