第二十二章第二節<Reflection of Curse>
死神が、ゆっくりと歩み寄る姿が恐怖と共に網膜に焼きつくのではないか。
そうした錯覚を覚えるほどに、警備兵たちは凄まじい感情の起伏と共に迫り来る黒衣の男を見つめていた。
男の右手には、抜き身の太刀が握られている。これまで数多の同胞の血を吸ってきたのか、その刀身はべっとりとした暗赤色の液体に濡れそぼっている。空気に触れた血液は粘度が高まり、こうしている間にも切っ先から滴る血液はゆっくりと珠を結び、糸を引いて床に落ちる。
まるで時間の流れが鈍くなったかのような世界。だがそれはまやかしであり、現実に男は確実に間合いを詰めてくる。
距離にして、十数メートル。相手が武器を持っているとしても、こちらの警護兵は全員が自動小銃を装備しているのだ。通常なら何のためらいもなく引き金を引く状況であったが、今度ばかりは事情が違った。
男の歩が止まった。
圧倒的な殺意が膨れ上がる、たったそれだけの現象に対し、警備兵の一人の精神の均衡が崩れた。
意味を成さぬ叫び声と共に引き金を絞る。銃口から次々と連射される弾丸が無秩序に、そして暴力的なまでの力を帯びて空を裂く。満足に狙いも定められずに発射した弾丸が、通路に幾何学的な軌道を描き、壁面に銃創を刻む。
それと同時にラーシェンが動いた。
決してその歩みは駆けることなく、だが同時に飛び交う弾丸軌道を正確に読む。まるで緩やかな歩調であるにもかかわらず、そして徐々に間合いを詰めているにもかかわらず、弾丸は一発たりとも命中しない。
あたかも流水に乗る笹葉を竹棹で突くが如き身のこなしで懐に達したラーシェンは、警備兵がそれ以上の恐怖を感じるよりも早く、太刀を一閃。
人形を払い除けるような動作で振り抜かれ、ラーシェンの黒衣が血に染まる。
引き攣った悲鳴を上げる間もなく、警備兵らが恐怖と恐慌に筋肉が麻痺する。
今しがた切り捨てた男がくずおれるよりも早く、ラーシェンの第二歩が踏み出された。
密集陣形を取っていたにもかかわらず、その一角を切り崩された隙を突かれ、警備兵らの頭上から太刀が襲い掛かる。まるで手ごたえを感じていないかと思わせる素振りで、ラーシェンは踏み込み、反転させ、舞を舞うかのような足取りで一瞬にして警備兵らの背後に到達。
一瞬の遅滞の後、壁面に紅が弾けた。互いに血飛沫を浴びつつ、戦闘服を紅蓮に染めた骸が糸が切れた操り人形のように重なりあって倒れる。
背を向けたまま血振りをし、太刀を鞘に納めると、屍を乗り越えるようにしてフィオラが歩み寄る。
「あなたは、不思議な方ですね」
首だけを捻り、ラーシェンは背後を見やる。
「一人ぼっちで蹲る子どものような気配を漂わせるかと思えば、悪鬼羅刹かと見紛う気を放つ……」
「殺すことはなかった、とでも言うつもりか」
「いいえ」
フィオラは妖艶な表情を崩さぬまま、首を横に振った。
「殺さずとも、それを恩義として感じることはないでしょう……貴方の選択は正しいと思われます」
もはや事切れた兵らを見つめ、フィオラは通路に向き直る。
「行きましょう」
残された時間は少ない。否、この作戦行動自体が無謀ともいえるものなのだ。
裾を揺らし、ラーシェンもまた、それに従うように歩き出した瞬間。
数歩前を歩いていたフィオラの膝が唐突に折れた。そのまま体重を支えきれず、床に手をつく。ばさりと豊かな髪が流れ落ち、そのまま苦しげな息遣いに肩が上下する。
「……!?」
慌てて駆け寄るラーシェン。
額に汗を浮かせ、荒い息をつくフィオラの唇が一度閉じられたのち、紅を吐き出した。床に散る紅蓮の薔薇。ラーシェンの脳裏に、先刻の警備兵の銃の乱射が過ぎる。
「まさか」
「平気です……」
弱々しい声で、フィオラが呟く。
「ですが、本当にもう、時間はありません……」
どういう意味だ。問おうとしたとき、フィオラは先手を打つように答えを口にする。
「囮として打った式神がたった今、霊的に破却されました」
霊的破壊。
それが、同時に術者へのフィードバックをも意味することを、ラーシェンは改めて知ることとなった。
術が破られれば解放された呪力が戻ってくるという、呪術師が背負う宿命の名は、逆凪。
「恐らく……あれは妖魔ではないことは……警備兵に知識がある者がいれば、すぐに……」
フィオラが打った式神を、自然発生的な妖魔と混在することで警備兵の注意をひきつける作戦であった。
それが破られてしまった以上、警備兵は守備しなければならない各ゲートが突破されたことに気づくであろう。各所に配置されていた警備兵らはそのほとんどを殲滅しつつ潜っているために、侵入者がいるということは明白だ。
今後の行動は、これまで以上に迅速に、かつ慎重に行わなければならぬ。
壁に手をつき、立ち上がるフィオラ。純粋な肉体損害ではないことを示すかのように、あれだけの喀血をしておきながら、既に肉体的苦痛はないようであった。
通常、使役される霊的存在と呪術者との間には霊的な接続関係が設定される。それは単なる主従関係などではなく、視覚聴覚嗅覚といった感覚共有や魂魄の一部接続などの現象を付随させるものである。つまり、式神が何等かの被害を蒙った場合は術者にもそれが及び、またこうして破却されれば少なくない肉体損害を術者も受けるのである。
だがそれは物理的な意味合いでの肉体の破損ではない。強烈な自己暗示により発生した両者の接続関係により、精神が肉体に及ぼす一時的な苦痛と出血現象であり、強烈な信仰をもつ信者の躰に発生する聖痕現象と酷似するものであった。
「……行きましょう」
声はまだ掠れてはいたが、その響きには強烈な意思を感じさせるものがあった。
「ヴェイリーズの情報を、何処かで掴まなければ……」
「行こう」
果てのない煉獄へと続く回廊を、二人はさらに駆けていった。