第二十二章第一節<Diversionary Command>
甲高く響き渡る風の音は、まるで人の声のようでもあった。
これほどまでに遠く、長く伸びる悲鳴のような声を出しているとしたら、それは一体どのような者なのか。そして、その者は今、どのような状況に置かれているのだろうか。想像力に乏しい者であっても、それが決して安楽なものではないことは容易に知れよう。
だからこそ、嵐は恐怖を呼び、恐怖は魔を引き寄せる。
強い風に乗って乱舞する砂粒がばちばちと頬に当たり、警備兵の一人は辟易したように乱暴に顔を擦った。
カーキ色の帽子を目深にかぶり、砂避用のバイザーグラスを装備している男は一度天を仰ぎ、そして暗褐色に染まった空に何も見えないことに溜息をつき、再び銃を構える。肩から腰にかけて掛けられた同色の防寒用のマントが風を受け、孕み、ばたばたとなびく。
男は幾度目かの欠伸を漏らしつつ、目を瞬かせ、そして砂嵐の彼方を見やり。
「……?」
表情が、怪訝な色を示す。大きな影が、一瞬嵐の中を横切ったように見えたのだ。
自然物の類ではない。今こうして目を凝らしていても、同じ位置に影を見ることはないのだ。
だがしかし、確実に彼の視界の中を、何かが横断した。
男は喉を鳴らすと周囲にいるであろう仲間を探す。近くに誰かいるのだとしたら、仲間も同様に見ている可能性が高い。
だが見回してみても人影はない。耳元に装備していた通信機のスイッチを入れてみるが、聞こえてくるのは擦過音に似た雑音のみ。
諦め、男は影を目にした方角へと歩いてみる。何もなければ戻ってくればいい。やばそうな気配がすれば、一目散に走って逃げれば追いつかれることはないだろう。
砂嵐の中、方向感覚が分からなくなるという話は幾度も聞いたが、俺は自分がいた場所から一直線に歩いているだけだ。来た道を素直に戻りさえすれば、詰め所にはしっかりと戻れる。
男は銃を構えながら、一歩ずつ踏みしめつつ先に進む。
最初のうちは、一向に晴れない視界の正面から襲い掛かってくる妖魔の姿に怯えていた男も、十歩を数えるあたりからは妄想も薄れ、口元には余裕の笑みさえ浮かんでいた。
そして、進みだしてから数分が経過した頃。自分でもどれだけ進んだのか、不安になり始めたときであった。
もうそろそろ、戻ってもいいんじゃないか。もしかしたら、自分が突然いなくなったことで、仲間が心配しているかもしれない。そう感じた男が、踵を返したときであった。
唐突に背後に感じる気配。
それは、あのまま自分が進んでいたら、ほどなく相対していたであろう、それ。
見上げる男の視線の先に、一対の輝きが映った。
黄金の甲冑に身を包んだその巨躯は、人の肉体であろうはずはなかった。兜の下から覗く無表情な双眸は、男を捉えるや否や、太い腕に掲げた巨大な戦斧を振り上げる。
男は銃を所持していることも忘れ、ただ恐怖に身を縛られたままであった。
そして、かろうじて携行していた、緊急用の発煙筒を点火したと同時に、男の脳天は斧によって両断されていた。
砂嵐の上空で炸裂する光を見上げていたカルヴィスは頷くと、周囲に身を潜めていた部下に振り返る。
たったそれだけの合図によって、窪地に身を隠していた突入部隊が一斉に姿を現し、事前に調査を済ませていた突入口へ向けて迅速に向かっていく。
さして大きくはない直方体をした侵入経路を護る警備兵を悲鳴すら上げさせずに殺し、次々と経路を確保していく。
その手際の良さは、彼等が確実にゲリラ戦のプロフェッショナルであることを物語っていた。
人を殺すことに、躊躇していてはならない。まるでそれは刀鍛冶が槌を振り下ろすのと全く同じように、命ある人間の急所を最大にして最速の攻撃で貫き、死に至らしめるのだ。
「遅れるなよ」
自分の傍らで息を潜めていたメイフィルの頭を乱暴に撫でると、カルヴィスは制圧した経路の一つに向かって走る。
鍛え上げられた脚力と素早い対応には追いつかないものの、やや遅れてメイフィルが大きなバッグを肩から提げて走り寄ってくる。
それを確認しようともせず、カルヴィスは部下に対して視線と指を使った合図だけを送る。かなりの速度で組み替えられた合図を部下は正確に把握し、そして砂嵐の中へと姿を消していく。
「さあ、こっからは正念場だ」
カルヴィスは腰のホルスターから一挺の銃を抜き放つと、グリップをメイフィルに向けて差し出した。
「俺らもあんたを守るが、それだけじゃ十分じゃねえ。自分の命は自分で守んな」
その言葉に、メイフィルは驚きに目を見開いた。
話が違う。戦闘部隊がヴェイリーズを救出するのが主な目的であり、自分は基地内部のセキュリティシステムの掌握と攪乱のために同行しているのに。
だがメイフィルの表情から胸中を察したカルヴィスは、にやりと笑って見せた。
「まあ、それを使うってことは、俺らが全滅したってことだからな……心配すんな」
生まれて初めて握る銃は、メイフィルの腕に確かな重量を感じさせながら収まった。
しっかりと指に力を入れねば取り落としてしまいそうな、それ。この引き金を引けば、弾丸は発射される。そしてそれは、容易に人を殺せるだけの威力を持つのだ。あまりにも容易に、そしてあまりにも無表情に。
その傍らで、カルヴィスの部下がドアを破り、次々に中へと飛び込んでいく。銃を握り締めながら覗いてみると、すぐに急な階段が地下へと伸びているだけだ。
「あの、フィオラさんたちは……」
「あの二人なら、東の潜入口から潜っているはずだ」
遠くに銃声が聞こえる。
それが、フィオラの打った式神による警備兵陽動の騒乱であると知るメイフィルは、こみ上げてくる不安をぎゅっと押し込める。
「行こう。これから先は時間との戦いだ」
説得され、メイフィルは頷くと、黒い戦闘服に身を包んだカルヴィスに続いて、階段を足早に下りていった。