間章ⅩⅩⅠ<黒睡の宮殿>
ジェルバールは王宮の廊下をただ一人で進んでいた。
常に彼の傍らにいるはずの、S.A.I.N.T.フェイズ・ドラートの姿はない。否、隠密護衛と秘密裏の戦闘が主たる任務である彼等が姿を見せるということは、有事を除いてはまず有り得ない。
唯一の例外としては、自らの主人と二人でいるときのみ。
今は、単独行動であるはずのジェルバールの周囲には護衛の気配すらなかった。
ジェルバールが身を護るために帯びているのは、腰に佩いた一振りの長剱のみ。だがその状況においてすら、必要以上に神経を尖らせることもなく、ジェルバールは歩を進めた。広間を幾つも通り、螺旋の階段を下り、そして黒い大理石で装飾された回廊の終着地にあるエレベータでさらに下る。
足場を残し、青白い光が次々に頭上へと流れていく光景を見据えながら、ジェルバールの瞳は虚ろなまま、深い思索に埋没していた。
どれだけの距離を下降したのだろうか。
エレベータの速度が緩やかになり、やがて光が遥か頭上で停止する。
ジェルバールの周囲を取り巻いていた透明な壁が足下の台座に収納された。辺りに満ちた闇に溶け込むように、黒衣のジェルバールは革靴を鳴らしてエレベータを下りる。
台座を照らす光が強すぎたために、周囲は闇のように見えたのだが、よく目を凝らすと辺りには小さな光源が無数にあった。一つ一つは宇宙で瞬く星のそれのように微かで小さいそれらは、乱雑に置かれたままになっている様々な計測機器のものであった。
まるで迷路の壁のように無秩序に並ぶそれらの隙間を器用に進みつつ、ジェルバールは一つの大きなシリンダーの前まで来た。
ちょうど計測機材の影になるような位置にあったそれは、エレベータを下りた場所からは見えない場所にあった。
しかし、シリンダー全体から放たれる淡い緑色の燐光に照らされながら、ジェルバールはそれを見上げた。
眠るように漂う、一人の少年。見やりつつ、ジェルバールは一言を、微かに漏らす。
「……兄さん」
その声がシリンダーの中の少年に届いているのかどうかは分からない。
夢を見ているように、静かに閉ざされた瞳はぴくりとも動くことはなく。周囲に散る黒い薔薇の花弁に囲まれながら、まるで少年は幻想の中にたゆたう妖精のようでもあった。
だが、奇妙なのはジェルバールの言葉であった。どう見てもこの少年は十代の前半であり、向かい合うジェルバールからすれば遥に年少であるはずであった。それなのに、彼の唇からは兄という言葉が漏れた。
それが意味するものとは、一体なにか。
「兄さん……私は仇成す相手は、銀の龍と、そして逆賊L.E.G.I.O.N.だけかと考えていた……」
シリンダーの表面に手をつく。それは考えていたよりも遥かに冷たかった。ちりちりと忍び寄ってくる冷気がすぐに痛みに変わるが、ジェルバールは離そうとはしない。
「S.A.I.N.T.であっても、全幅の信頼を寄せられる者はただ一人のみ……そしてリルヴェラルザ、ニーナ、ソランジュ……それ以外の者は名すら知らぬ、そのような状況で、<Taureau d'or>として戦い抜けるわけがないではないか……」
既に掌の感覚はなくなってきている。ぎり、と爪を立ててからジェルバールは身を起こす。
「済まない……邪魔をしたな」
白くなった右手を袖の中で握り締め、ジェルバールはシリンダーに背を向ける。
視界から消える寸前、少年の瞳の前で制止する花弁が、僅かに動いた。