第二十章第二節<Secret section of Memories>
不思議な空気が漂う時間であった。
既に時間は夜半を回っていると言うのにもかかわらず、艦の操縦室には煌々と灯りが灯っていた。
その中で動く操縦士たちの数も決して少なくはないのだが、しかしそこには活気と名のつくものはなかった。疲労が彼等の肩に重くのしかかり、やつれた表情はまるで永久の咎人のように虚ろであった。
疲れているのならば休めばよかろう、と思うかも知れぬ。事実、ここにいる者たちの大半は一度、部屋へと戻ってベッドに身を投げ出しているのだ。
しかし安らかなる眠りは訪れず、代わりに悶々とした靄が神経を昂ぶらせ、結果として重く鈍い躰を寝台から起き上がらせ、再びここへと戻ってきたのだ。
理由は明白だ。
今から数時間前に訪れた、<Taureau d'or>第二騎士団<琥珀>中将カルヴィス・ウーゲルからの映像通信が、彼等の神経を不要なまでに興奮させているのだ。
話し合いの結果、当面の目的が一致することを両者は確認しあった。
ヴェイリーズ・クルズの救出という共通の目的を定めたカルヴィスは、四時間後にこちらへの直接接触を約束し、通信を切った。
警戒心がない、と言えば嘘になる。何せ相手は<Taureau d'or>の騎士団だ。通信ではああ言っておいて、いざ接触を図った途端に全員捕獲される、という顛末でさえ充分に予測できるのだ。
だが、幸か不幸か、彼等には騎士団を相手に戦闘を繰り広げられるだけの装備はなかった。
もし充分な武器があったとしたら、彼等にも手の打ちようはあっただろう。残された時間について、万が一というときの逃走経路の設定や必要最低限の武装確認など、機能するかどうかは別として、やるべきことを見出すことは出来たはずであった。
しかし、武装は少なく、武器は脆弱であった。
その結果として、彼等には空虚かつ膨大な時間だけが残され、そして仕事もないままに休息すらできぬままにカルヴィスの到着を待たねばならぬこととなったのだ。
終着の見えぬ時間ほど、人間の精神を疲弊させるものはない。元々においてプレッシャーに苛まれていた精神は、休むことも出来ぬまま、まるで拷問のような時間を過ごすことを余儀なくされていたのであった。
ことり、と傍らで音がしたことで、ラーシェンは我に返った。
見上げると、手に銀のトレイを持ったフィオラが珈琲の入ったカップを運んできたところであった。
「どうぞ」
「済まん」
ラーシェンは手に取ると、一口を含む。湯気に込められた香気は心地よく不快な緊張を解きほぐし、程よい湯温はゆっくりと臓腑を暖めた。
「メイは……どうした」
「寝たわ」
フィオラは一度視線を操縦室の奥にある気圧式のドアに向ける。
「あなたが帰ってくるまで、ずっと緊張を張り詰めさせていたんだもの……きっと疲れたのよ」
「それはよかった」
眠れるということは、まだ体力が残されているということだ。
「そっちはどうなんだ」
「恥ずかしい話なんだけど……一応、私も部屋には戻ったわ」
それはつまり、眠ることを諦めた者の一人だということだ。
「安心しろ、俺もそうだ」
「あら」
くすりと微笑を漏らし、フィオラは珈琲を飲むラーシェンをじっと見つめていた。
「それは意外ね」
フィオラの言葉には答えず、ラーシェンはカップを傾ける。
「さっき、何を考えていたの?」
視線を交わさぬままのラーシェンの動きが止まる。
「分かるわよ、さっきまでずっと……何か考えてたでしょ」
溜息をつき、ラーシェンはカップをサイドテーブルに戻す。
適当なことを言って誤魔化しても意味がない、と考えたのか。
「あいつが、<射手座宙域の聖歌隊>の生き残りだったなんてな」
不快に火照る顔に手をあて、喘ぐように呟く。
その真実は恐らく本当であろう。ならば、彼の感情は確かに理解できる。あのとき、<Tiphreth>の地下道でヴェイリーズの語った反社会の思想は、確かに頷ける。
そして同時に、ラーシェンは自分の発言を深く悔いていた。
彼はそれまで、ヴェイリーズのことを、ただ血気盛んなだけの、若さゆえの原動力だけで突き進む男だと考えていたのだ。だが、八年前のあの地獄を潜り抜けてきた男の言葉だとしたら、話は別だ。
「あの地獄は……あの場所にいた人間にしか分からん」
「見てきたような台詞ね」
「八年前」
ラーシェンは重苦しく、深い霧のように濁った声を口にした。
「俺は、あの事件で……妻と娘を失った」
今度、驚く番になったのはフィオラであった。口元を押さえ、狼狽した瞳を揺らしながらラーシェンを見下ろす。
「信じられない、って顔だな」
「……だって、あの事件では、生存者はいないって言われてるのよ、ヴェイリーズがそうだって言われただけで驚いたけど、まさかもう一人いるなんて……」
「そうだろうな」
ラーシェンの瞳からは焦点が失せ、珈琲の湯気の向こうに追憶を眺めているようであった。
「信じられんというのも無理は無い。実際、俺は死にかけた」
全てが白一色に染め上げられた、あの虚無の空間で。
目を開けていることも、息を吸うこともできず、ただ瓦礫の中で暴風が過ぎ去るのを待つ獣のように身を縮こまらせ。腕に娘を抱き、しっかりと妻の手を掴んだまま、ラーシェンはただ、破壊の渦が通り過ぎるのを待った。
それが果たして数分だったのか、それとも一時間だったのか。
どちらにせよ、自分の無力さを思い知らされ続けた時間は苦痛以外のなにものでもなかった。
頭のすぐ上で轟く音量と、そして無数の使徒の奏でる讃美歌が耳を聾せんばかりに鳴り響く。
それがようやく収まったと思った頃、ラーシェンは腕の中で震えているはずの娘の名を呼んだ。幾度呼んでも答えぬ娘の顔を見たラーシェンは、鼓膜と眼窩から鮮血を溢れさせて事切れている娘を見た。
半狂乱になって引き寄せた妻の腕は軽かった。肘から先は、千切れたままに無くなっていた。
意味を成さない叫びを上げ、瓦礫を弾き飛ばして身を起こしたラーシェンは、唐突に目を射る光に顔を庇った。
無数の言語を同時に聞いているような、人語ではあれど言葉として認識できぬ響きが耳を打つ。
はっとなったラーシェンの眼前に、顔があった。あまりの眩さに直視できぬほどの光を放つ顔は、ひたとラーシェンを見つめ。
そして次の瞬間、ラーシェンの躰を衝撃が襲った。
光の使徒が手にした眩い槍が、ラーシェンの胸板を貫いていたのだ。
がくんと二つに折れ、衝撃を受けたラーシェンから、ずるりと槍が引き抜かれた。顔は無表情のまま、深く貫いた槍を引き戻したのだ。
一瞬遅れて、その傷口からごぼりと鮮血が溢れる。
力が抜ける、と思った瞬間、頭上から同じ光の槍が無数に投擲され。
そして、ラーシェンは意識を失った。
「目が覚めたら、行った事もない土地にいた……右腕が折れて、内臓がいくつか潰れただけで済んでいた」
それまでじっと話を聞いていたフィオラは、とある問いをずっと抱いていた。
妻を、娘を、そして自分の生活を奪われ、あなたは<Taureau d'or>を恨んでいないのか、と。
だがそれを口にするよりも早く、興奮した操縦士が淀んだ空気を拭い去るように叫んだ。
「信号受信、<Taureau d'or>第二騎士団艦隊が到着した模様です!」
「……行きましょう?」
騒然となる操縦室の中、フィオラはラーシェンにそっと、手を差し出した。
第二部 完