第十八章第二節<Bǐyìniǎo>
人の流れに乗って、ラーシェンが南の大門が見えるところまで歩いてきたときであった。
黒く分厚い外套の下で、何かの震動を感じ、ラーシェンはふと足を止めた。
それは、今までに感じたことの無い奇妙な感覚であった。皮膚に触れることなく、産毛だけを撫でられるような、不思議な感覚が肌に走る。無精髭に覆われ始めた口元を歪め、ラーシェンは外套の上から太刀へと触れた。
びぃん。
一際強烈な震動が、厚い生地を通して伝わってくる。それは、明らかに今、自分が触れたことに対する、太刀からの返答であった。
一般的なSchwert・Meisterというものは、太刀や刀というものを武器としてしか扱うことは出来ない。否、太刀は極めて希少価値の高い武具であり、よほどの幸運に恵まれぬ限り、それを手にすることは出来ない。
そのため、大半のSchwert・Meisterは太刀を模した性能の擬似武器としての刀を用いる。
外見では両者の区別はほぼ不可能であるが、刀身を収める鞘に特徴があるのが太刀であった。
この世界に現存する太刀は全部で十五本。その全ての鞘は黒い漆塗りであり、その太刀の属性を象徴する紋様が金箔によって装飾されているという話は有名である。
だが刀と太刀、両者の決定的な違いは、熟練のSchwert・Meisterのみが可能とされている「交感」という一点に集約されている。
太刀は単なる武器ではなく、太古の時代に人の手によって鍛錬製造された擬似生命体という一面をも併せ持つ。物理生命体の例外的存在として認識されている太刀は、しかし通常の生命のような活動は一切行うことは出来ない。
いや、むしろ精神を付与された特殊な物体というほうが説明としては正しいか。
ともかく、太刀は存在を続けている間、常に知的活動を続けてきたのであった。
結果として、太刀にはそれぞれに膨大な戦闘経験が記録されていることになる。
それだけでも、データベースとしての価値は計り知れぬ上に、太刀が主と認めた所有者に限り、意志の疎通が可能になった事例さえ残されている。
ラーシェンは、まだ太刀との交感を認められた所有者ではなかった。
だがこうして、太刀が通常とは異なる動きを見せたときは、自分とその周囲において、何等かの危機的状況が発生しているとみて間違いはなかった。
ラーシェンは素早く周囲を見回すが、都市部の往来に異常は無い。
人々は何の変哲も無い日常の中で働き、生きているだけだ。
だが、それはあくまで視界の中の様子でしかない。過酷な辺境の天候から生活を守るため、人々がこしらえた頑丈なドーム障壁は、その向こうを見る窓などありはしない。
意を決したラーシェンは、半ば人々を突き飛ばすようにして大門へと駆ける。背後から乱暴な所作への苦情と怒号とが聞こえてくるが、ラーシェンはその一切を無視した。
ものの数分で南ゲートへと辿り着くラーシェンに、監視員は不審そうな視線を向けた。
確かに、往来から色めき立った人間が走ってくれば、物取りか犯罪者の類だと考えるほうが妥当だろう。無論、鬼気迫るラーシェンの表情から、監視員はただごとではないと腰の警棒に手をやった。
だが、制止をするために声を張り上げた監視員に対し、ラーシェンは強烈な気迫を込めた眼力を叩きつける。
関門の周囲にあまり人がいなかったことは不幸中の幸いであるとも言えた。
そのまま、声を失った監視員の脇を擦り抜けるようにして、ラーシェンは分厚い扉の隙間から都市の外へと飛び出した。
分厚い障壁を抜けたラーシェンは、砂嵐の只中に飛び出したようであった。
たちまち耳や頬を打ち据える砂粒から腕で顔を庇い、まずは周囲の状況を確認する。腕の下で目を細めるようにして警戒するラーシェンの遥か彼方で、そのとき光が炸裂した。
はっと動きを止めるラーシェンの鼓膜に、地響きにも似た轟音が轟いた。
爆発、ではなさそうであった。それっきり光も音も止んでしまったが、太刀の震動からすれば、あの集落の方角で何かが起きているのは間違いない。
右手を外套の下に滑り込ませ、太刀の鞘をしっかりと握り締めると、ラーシェンは疾走を開始した。
どれくらい走っただろうか。
とうに砂嵐を抜け、黒い天蓋に浮かんだ二つの月明かりを頼りに先を急ぐラーシェンの足が、動きを止めた。
時間にして十五分は確実に全力疾走を続けていたはずであるにもかかわらず、ラーシェンは息一つ切らしてはいない。それだけでも常人離れした脚力と心肺機能を保持していることになるのだが、ラーシェンは呼吸を殺しつつ、あたりの様子を伺っていた。
今しがたまで舞っていた砂埃が、無風状態の空気に溶けるようにして四散していく。
全身の神経を研ぎ澄ませながら、ラーシェンは待つ。
今、この場で不用意に動くことは危険だ。いつでも攻撃態勢に移れる格好のまま、二十秒を経過しようとしたときであった。
急激な速度で収斂する怨念が、一瞬にして受肉を開始する。
実体を持たぬ希薄な怨念が、みるみる濃度を増していくことで霊位を向上させていく。通常は霊能を持たない人間では見ることが出来ないとされている怨念の渦が、周囲の光線を歪曲するように視覚化されていく。
左腕に装着したVAを起動すると、夜闇の中に薄型液晶画面の光が灯る。
確か、あの集落で発生した妖魔の系統はNorthern Europe系列だった。
ラーシェンの眼前で、妖魔は次第に形を整えていく。
その姿は、頭上から覆いかぶさるような威圧感すら与えてくる、禍々しく巨大な鴉だ。先刻の妖魔戦闘では、アプリケーション不足から直接戦闘でねじ伏せるしかなかった。
だが今は、VAにインストールされているソフトの数は増えている。
ラーシェンは鴉から視線を離さず、視界の隅でVAを操作。
<アウストリ、ヴェストリ、スズリ、ノルズリ、四方の世界を支える侏儒を生み出せし大神、その忠誠を忘れし愚昧な鴉に神罰を>
文字が映し出されると同時に、分析結果が隅に表示される。
<分析終了 妖魔タイプ確認 Northern Europe系列 種族名称 鴉神>
やはりだ。大神オーディンの使役神族としての地位を持っていた妖魔を中心にして、オーディンの波長をなぞらえた聖域が展開される。
ぎぃっ。
三つ首の妖魔が嘴の奥から、金属音にも似た声を発する。
羽ばたく翼も次第に力を失われていく。黒い羽根はところどころが乱れ、剥げており、その下からはピンク色にぬめる皮膚が露出している。
神族としての栄光や威厳を微塵も感じさせない、その堕落した姿。
ここで手間取っている時間は無い。
なんとか浮力を維持して空中に留まり続ける妖魔に、ラーシェンは懐に忍ばせた右手で太刀の束を握る。一回の踏み込みで間合いの内側に滑り込んだラーシェンは、鞘から鋼鳴りを響かせながら抜刀、一閃を繰り出す。
腰の捻りと腕の振り抜きは、刃に致死の斬撃を産むだけの力を宿す。
この距離と速度ならば、躱すのは不可能だ。だが、刃が妖魔に抵触する寸前に、妖魔の周囲の空間が変質した。
太刀が震えたのは、斬撃を完璧に防ぎ切った魔法障壁による衝撃だ。
おかしい。妖魔がある程度の魔術を行使することはわかっている。だからこそ、戦闘以前に聖域を展開させ、妖魔の力を殺いだのだから。
それなのに、どうして、魔法障壁があるというのだ。
反撃を避けるために一度間合いを離すラーシェンは、そのときはじめて背後に気配を感じた。
莫迦な、新手か。
有り得ない。最初に感じた気配は、眼前の妖魔のものだけだったのだから。
背後の妖魔の気配を探りつつ、ラーシェンはVAから妖魔のデータベースを検索、音声ガイドによってワイヤレスマイクを通じた音声を選択。
<鴉神、大神オーディンの肩に安置されるフギン、ムニンの二体の鴉を象っているものです>
二体。鴉神という妖魔自体が、自然発生的に常に二体を生み出す特性があったとは。
完全に無傷なもう一体の妖魔からの殺気を感じる。
ぎりぎりまで追い詰めたというのに、眼前の妖魔に止めをさすことができない。
時間の経過と共に、次第に展開した聖域の力が弱体化していく。
時間が無い。だが、焦りは思わぬ敗北を招く。
ラーシェンは弱々しい動きを見せる妖魔から視線を離さず、ゆっくりと足を運ぶ。
隙を見せれば、背後の妖魔は間違いなく襲ってくる。だが眼前の妖魔もまた、まだ戦闘能力を失ったわけではない。
どちらが来るのが早いか待つのもいいが、よしんば同時に攻撃を仕掛けられれば無事にはすまない。
何せ相手は元神族の形代を持つ妖魔なのだ。以前に戦った、人型の妖魔とは力が違う。
踏み出した足の周囲から砂煙が舞い上がった瞬間、ラーシェンは動いた。
外套の下に吊ったハンドガンをホルダーから抜き放ち、発射。
無論、銃撃が通用するとは思ってはいない。
予想に違わず、銃弾は太刀をも弾き返す障壁に阻まれて蒸発。その隙をついて、背後の妖魔が飛び掛ってきた。
隙をつこうというのなら、自ら隙を作ってやればいい。引き金に指をかけたまま頭上に放ったラーシェンは、迫ってくる殺気に呼応しつつ振り向きざまに一閃を放った。
刃は僅かに目測を誤り、妖魔の黒い翼の一部を削り取っただけに過ぎない。
目標が信じられない反応速度で攻撃をしてきたことに妖魔は驚きを隠せぬようであった。
太刀を振り向いた右手首を返し、今度はしっかりと三つ首の根元に叩き込む。
断末魔の雄叫びを上げる妖魔。
周囲に巡っていた魔法障壁の気配が揺らいだ。相棒を殺される恐怖なのか、弱っていた妖魔は逆に背中を向ける形になったラーシェンに突撃。
「甘い」
投じていたハンドガンを左手で受け止め、至近距離から銃弾を打ち込む。
翼、胸、頭部を次々に打ち抜かれ、妖魔はどさりと地に落ちた。
両腕を交差する形で、ほぼ同時に妖魔を仕留めたラーシェンは、胸のうちに溜めていた息をゆっくりと吐いた。
VAのスイッチを切り、武器を収めたラーシェンは、既に消失した妖魔の核の小動物には目もくれず、再び荒野を疾走していった。