間章ⅩⅦ<闇に溶ける声>
薄暗い渡殿を進む足音があった。
時刻は午後十時をとうに回り、一時間前ならまだ行き交う職員もいたものの、今となってはもう人気すらない。革靴が板張りを模した床を打つ音だけが静かに響き、ほどなくして灯された光の中にくたびれたスーツを着た一人の中年の男が現れた。
男は一目でそうと知れるほどに憔悴しきっていた。出来ることなら、今すぐに熱いシャワーを浴びて柔らかいベッドに倒れこみたい心境であったが、その願いもまだ一時間は叶えられそうに無い。
ここは第五活動可能領域<Geburah>「高天原」の衛星にある外務省庁であった。
ふと視線を横に向ければ、白い玉砂利が美しく映える池と、そしてその向こうに続く朱塗りの寝殿が見えるのだが、今の彼にはそのような光景を楽しむ余裕すらない。今日一日の業務をようやく終えたところだが、あと七時間後には再びベッドから躰を起こして仕事に出向かねばならない。
その七時間という、決して長くは無い時間の中に、これからの帰路と入浴、休息と睡眠の全てが込められていると考えた途端に、男の足は疲労とはまた異なる理由からずんと重くなった。
電灯の消えた渡殿を歩き終え、突き当たりにあるエレベータのボタンを押すと、地下深くでワイヤーが巻き取られる重い音が聞こえた。
もう少し、もう少しの辛抱だ。そう自分を説得させながら、それでも少しだけと瞼を閉じ、甘く気だるい闇に意識を任せようとした、そのとき。
「首尾はどうだ」
暗闇の中から、突如として男の声が聞こえた。
自分でも情けないくらいの大きな声と動作で狼狽しつつ、男は目を開けてあたりを見回す。
だが周囲に見えるのは、無常にもとろりと淀む薄闇と、ところどころに灯された間接照明の光のみである。
人の姿は愚か、声を聞かなければ気配さえ読み取れぬ。
しかし男は、誰何の声は発しなかった。その代わり、震えつつも口にした言葉は、どうにも奇妙なものであった。
「脅かさないでくれ、その、ここには……来ないという約束だろう……?」
「少しばかり事情が変わった。それで、首尾はどうだ」
同じ質問を繰り返す声に、男は額に吹き出る汗を拭いながら答える。
「あぁ、今のところは順調だ。今夜の会議でも地下組織の幹部の拿捕に成功したという情報が限定機密として公開されている」
「幹部、か……名前は」
「ヴェイリーズ・クルズという、わ、若者だ」
「ふむ」
声は一端途切れる。エレベータは途中の階で止まったまま、まだ到着する様子はない。
「お前たちにしては、上出来だ……よろしい、約束の金額は口座に入れておこう」
当初は額面だけに目が眩んだ男であったが、今は金額よりも大きく男の胸中を占める不安材料があった。
謎の男からの情報を頼りにして、ヴェイリーズ拿捕計画の実働部隊を動かしたのは、実質はこの男であった。出所を隠したまま、それでも信憑性の高い情報として渡したそれは、寸分の狂いもなく計画成功をもたらした。
本来なら成功を喜ぶところであったが、男はかえってその情報の正確さに恐れを感じていた。
それだけ精緻な情報を掴みながら、それでいて自らは手を下さない男は、一体何者であるのか。改めて思い知らされる、謎の男の裏にある存在の大きさと危険さに、自分がどんな相手と取り引きをしたのかということを、まざまざと感じさせられていたのだ。
「それよりもだ、この情報は、その、私の名前は決して……」
「分かっている。それよりも、ヴェイリーズという男、決して逃がすなよ」
男の声は、語尾が奇妙に反響するように聞こえた。
「それは、あの、どういう」
「ヴェイリーズは最後の切り札だ。対Chevalier用の警護を固め、断じて逃がすような真似はするな」
気がつくと、暗い渡殿に光が漏れていた。
目の前でエレベータのドアが開き、中の蛍光灯の光に照らされたまま、呆然と立ち尽くしていた。
男はしばし戸惑い、目を擦り、そしていつしか声がしなくなっていることを確かめると、逃げるようにエレベータへと駆け込み、ボタンを押した。