第十七章第一節<Piece of Picture>
酒と汗と煙草の匂いが染み付いた場所に、ラーシェンはいた。
地下組織の船が着陸したところから、徒歩で三時間ほど歩いたところにある、辺境都市だった。砂と風と気象現象から人々を守る都市の外殻がまだ堅牢であること、そして中規模の港があるだけの、中堅都市であった。
さすがにここでは技師もいなければ維持に必要な物資も調達できないからか、転送港の設備はない。船舶牽引用の大型資材と、燃料補給設備と、修理施設からなる港が都市の南に大きく迫り出す形で伸びている。
ラーシェンが向かったのは、街の外れに位置しているバラックであった。端から見れば、崩れかけた木造の廃屋のようでもあり、昼間でも薄暗いそこはランプの光を頼りにして仲間内だけで集まるような小さな寄り合いの場であった。
凡そ顔見知りの客ばかりのそこは、古びた外見とは似つかぬような活気に満ちていた。脂と無精髭に覆われた顔を寄せ合い、聞いているほうが顔をしかめるほどの馬鹿笑いに躰を仰け反らせている男たちは、そうやって毎日の生活の苦しさを紛らわそうとしているのだろう。
だからこそ、そこは彼等だけの場所であり、また何人にも侵されぬ聖域であったのだ。
ラーシェンが姿を現した途端、男たちは笑いを止めて一斉に戸口のほうへ顔を向ける。
ボロ布を垂らしただけの入り口に現れた黒衣の男の影は、それだけで彼等のささやかで陽気な宴を中断させるには充分だった。
充血した、拒絶と敵意の込められた無数の視線を浴びつつも、ラーシェンは動きを止めぬ。そのまま熱気のこもる室内へと足を踏み入れ、一番奥まったところにある、一際大きなテーブルにもたれる初老の男の前にまで歩み寄った。
淀んだ瞳を向ける男に、ラーシェンは外套のポケットから一枚の写真を取り出した。
「この子に見覚えはないか」
男は突っ伏したまま、手も出さずに差し出された写真を見て、それから再びラーシェンに視線を戻す。
少し長い沈黙のあと、男は是とも非ともつかぬ言葉を返す。
「何もんだ、あんた」
「俺はこの子の両親を探している」
ラーシェンは指に挟んだメイフィルの写真を、元通りにポケットにしまった。
「見覚えはないか」
「あんた、ここをどうやって聞いた」
「通りを歩いていたら話し声が聞こえた、それだけだ」
二度目の問いも、男の見当違いな質問返しによって躱されていた。
これ以上は話しても無駄だと割り切ったラーシェンは、男に一瞥を加えるとくるりと踵を返す。
「知らんのならば話は早い……邪魔をしたな」
問いですらないその言葉への返答は、男の中の誰かが胃の腑からこみ上げてきたゲップだった。下品な所作に仲間内が笑い転げた声が、ラーシェンによって中断された宴を再び盛り上げるきっかけとなる。
ざわめきが再開したその場を後にし、ラーシェンは宵の闇の中へと姿を消した。
廃屋を後にしたラーシェンは、市街地へと戻ってきていた。
天蓋全体を分厚い外殻で覆っているために、都市の中では大規模な陽光照明を時刻にあわせて調節することにより、住民に昼夜の時間感覚が失われないようにしていた。その陽光照明もすっかり光度を落とし、代わりに店はそれぞれのネオンに火を灯し、思い思いの空間を演出している。
ラーシェンがふと足を止め、そして中に入っていったのも、雑踏から少し離れたところにある酒場であった。
入り口の硝子ドアを潜ると、暖色系の光が柔らかく辺りを包んでいる。
調度品のほとんどが、磨き上げられた年代物で統一されているということも、店内の雰囲気を落ち着いた静かなものにすることに役立っていた。酒を酌み交わしているのは、やはりほとんどが男たちであったが、先刻ラーシェンが尋ねた廃屋とはまるで違っていた。
身なり、顔つき、そして男たちの躰に纏いつく品位が違う。
そんな、客層が両端にも位置する酒場を縫うように歩き、ラーシェンはタイを締めたバーテンのいるカウンターに辿り着いた。
「いらっしゃいませ」
グラスを磨く手を止め、バーテンは洗練された動きで一礼した。
「どのようなご注文でしょうか」
「テキーラ・サンストローク」
「かしこまりました」
ほどなくして、ラーシェンの前には忘れかけていたような、強烈な日差しの色をしたカクテルが置かれていた。
「済まんが」
ラーシェンはやはりここでも、諦めずにポケットを探る。
呼び止められたバーテンは、笑顔を崩さずにラーシェンに向き直った。
だが、向けられた写真については、バーテンは寂しげに笑顔を曇らせ、首を横に振った。
「申し訳ございませんが、そちらのお嬢様については存じ上げておりません」
「ありがとう」
言葉遣いは整ってはいるが、バーテンの口調からは、あまり他人の問題に関わりたくないのだという印象をラーシェンは感じた。だからこそ、言葉や表情も、誠意をもって接していると思わせるために、隙が無いのだろう。
ラーシェンは写真をポケットに戻す。
あれからずっと考えた挙句、ラーシェンが見出した結論の一つがこれであった。
全てを失い、全てを剥ぎ取られ、そして全てを放り出し、太刀<雷仙>だけを手元に残す自分が、一体何故生きているのか。
何処にも見出せないのであれば、せめて少しずつでもいいから、感じていたい。
その回答の一つが、メイフィルの両親についての情報を集めるということであった。
しかし今日一日この都市を歩き回ってみても、何一つ収穫らしいものはなかった。
出会った人間の大半は首を横に振り、そうでないものは胡散臭げな視線を向けるだけで黙って立ち去っていく。
だが、その結果は半ば予想はできていた。
メイフィルと出会ったのは<Tiphreth>、そして今いる場所は<Iesod>。
幾ら商隊といえど、活動可能領域を越えてまで赴くことが出来る者は非常に稀だ。ごく一部の特権商人を除けば、一個人で転送可能な設備を揃えるには莫大な資産が必要となるからだ。
そして、メイフィルの話を聞く限りでは、彼女の両親がそうした大きな規模の船を持っていたとは考えにくい。
しかし、何かの理由があって、彼女が他の活動可能領域で知られていたなら。
生まれが違っていたり、両親を知る者がいたり、理由は何でもよかった。
ちょっとした手がかりを求めての聞き込みであったため、ラーシェンには落胆している様子はなかった。
カクテルに手を伸ばし、一口を含んだとき。
「よぉ色男、一人かい?」
ラーシェンの傍らに肘をつくようにして近づいてきた男がいた。
人懐こい笑顔を浮かべている男の着ている服は、どうやら軍服のようであった。
というのも、それがラーシェンの知る軍服と同じであるとはとてもではないが思えなかったせいだ。詰襟の首から胸元までのホックは外され、だらしなくよれたシャツが露になっている。しかも、白いシャツの襟元には食べ零したのか、赤いソースが染みをつくっている。顎は無精髭に覆われ、頭髪も決して整えられているとは言いがたい。
すなわち、男の風体は軍人としての要素を持ってはいるものの、総じて軍人であるとは納得できないものなのであった。
言葉はなく、視線だけを向けるラーシェンに、男はにやりと笑って手に持ったジョッキのビールを飲み干す。
「そう怒るなって。俺だってそっちの趣味はねえからよ?」
少々乱暴にジョッキをカウンターに打ちつけるように置き、男は掌を差し出した。
「俺にも見せちゃくれねえか、見たところ人探ししてんだろ?」
少し迷った挙句、ラーシェンはポケットからメイフィルの写真を取り出して見せた。
受け取った男は写真を見るなり、明るく微笑んだ。
「可愛い子じゃねえか。娘か?」
「いや、連れだ。この子の両親を探している」
「そっかぁ……悪い、ちょっと見ない子だな」
返された写真を黙って受け取り、ラーシェンはポケットに戻す。ラーシェンが何の表情も見せずに再び視線を逸らす様子を男はじっと見つめ、ややあって顔色を伺うような声を出す。
「まあ、そんなに落ち込むなって。いつか見つかるさ」
「落ち込んではいない」
その無愛想を、精一杯気を張っていると汲み取ったのか。
「カルヴィス・ウーゲルだ」
差し出された手を、視界の隅に捉えたままやや黙っていたラーシェンは、手だけを動かしてカルヴィスの大きく固い手を握り返した。
「ラーシェン・スライアー」
お互いに口にしたのは名のみ。それ以上は追及せず、カルヴィスは人懐こい笑顔に戻った。
「ちょっと付きあわねえか、次は奢るぜ」
「いや、それは必要ない」
ラーシェンはグラスに残ったカクテルを一気に喉に流し込むと、カウンターに代金を置いてラーシェンは男に背を向けた。
黒い背中を黙って見送っていたカルヴィスは、程なくして店内の空気がざわりとどよめくのを感じた。
漣のような気配に店の入り口を見やったカルヴィスは、その原因がすぐに分かった。
酒場の雰囲気には似つかわしくない訪問者、セシリア中将の姿が人垣の間からちらりと見えたのだ。カウンターに肘を突いたまま、空のジョッキを弄んでいるカルヴィスを発見したセシリアは、一直線に歩み寄ってくる。
まるで神の遣いが歩んでいるかのように、人垣は左右に自然に割れた。何かを強く問いかけるような視線に、カルヴィスはぼそりと呟いた。
「よくここが分かったね?」
「あなたに似た人間が店に入るという話を聞きましたから」
軽口を許さないという口調は、明らかにセシリアの感情を吐露していた。
「こちらで何をしているのですか」
「まあ、そのなんだ、酒場の情報収集ってのもいいモンだぜ?」
「ではその辺のお話はのちほど伺うことにしますので。そろそろ戻ってください」
あからさまな溜息を一つつくと、カルヴィスは肩を落とす。
「お前、愛想がないにもほどがあるぜ?」
だがセシリアはその言葉を黙殺する。
「わかったわかった、こんなことならさっきのラーシェンってヤツと飲んでたほうがよっぽど会話になってたってもんだ」
ジョッキを戻してかぶりを振るカルヴィスへ、セシリアが強い反応を見せたのは次の瞬間であった。
「今、なんと言いましたか……?」
「どうせ飲むんならお前と飲んでも……」
「そうではありません!」
胸倉を掴まんほどの勢いで、セシリアは我を忘れて詰問する。
「今、名前を口にしたでしょう、ラーシェンと言いませんでしたか!?」
「あぁ、言ったけどよ……それがどうした?」
カルヴィスの首肯を確認するが早いか、セシリアは酒場の男たちを突き飛ばすほどの勢いで往来へと駆け出した。
元々この道は行き交いが激しい。慌ててラーシェンの姿を目で追うセシリアを嘲笑うように、人々の流れは賑わいながら行過ぎていった。