第十六章第二節<Veil of Desire>
翌朝、まだ夜も開けやらぬうちに、フィオラは救護家屋へと足を向けた。
夜通し吹き続けた風は、夜の間に身を切るような冷たさを宿す。地熱を保持し続けられるほどの力を持つ惑星は少なく、この地もまた例外ではない。惑星中心部の地核の活動がほぼ停止し、星としての命はほぼ枯渇している。
何等かの宗派の大地母神を勧請する、または地脈や地竜を目覚めさせる呪法を行えば力を呼び戻すことは可能だが、それとて一人二人の魔術師で出来るものではない。相応の準備をし、星のめぐりから日を読み、いくつもの呪術的制限を越えた上で、さらには力ある魔術師らで行われる典礼魔術でなければ意味がない。
また唯一の熱源である太陽からの放射熱も分厚く垂れ込める砂塵によって拡散され、地表までは届かない。風によって地熱が削られ、大気が激しく流動することで熱それ自体が容易に宇宙空間に放射してしまう環境が悪循環となっているのだ。
そのため、一端夜になってしまうと、冷却作用に大きく傾いた惑星表面は氷点下にまで達することも珍しくなかった。
防寒具の胸元を掴むようにしてかき合わせ、フィオラはがたがたと窓枠を震わせる家屋へと近づいていく。
砂利を大量に含んだ風が横から吹きつけ、思わず顔を庇うためにフィオラが腕をあげる。目を細めながら、ばちばちと手首に当たる砂粒を感じつつ、フィオラが顔を背けたその先。
うねるように回転する分厚い雲の狭間に、きらりと光る何かを見つけたのだ。
星の瞬きではない。それよりもずっと近く、そして強い光。明らかに、人工の光だった。
ぎゅっと形のよい眉がしかめられる。この時刻、そしてあの高度。こんな辺境の惑星の上空を飛んでいる機があること自体、滅多にあるものではない。
だが、この風と嵐の中、これ以上追求することは難しい。ひとまず不安の材料を胸のうちに押し込め、フィオラは家屋のドアを開いた。
ドアの向こう側から漂ってくるのは、人いきれと、汗と、そして吐瀉物の混じった鼻を突く匂いだった。
だが、それらは無理もない。この空間は、健常な人間のいる場所ではなく、病魔に冒され、また傷害に苦しむ者たちの場なのだから。
だがしかし、その場にいる者は驚くほどに少ない。空気にそうした負の臭気が染み付いているのは、この部屋がさほど広くないためであろう。
身を横たえているのは四名。うち三名は頭や腕、足などに包帯を巻かれたまま、胎児のように蹲って眠りに身を任せている。
当然だ。まだ夜明け前のこの時刻に起きている人間は、そうはいない。
だが、フィオラは視線を感じていた。それが、残る一人のものだと気づくには、そう時間はかからない。
何故なら、最後の一人は、傷を負ったためにここにいるのではないのだから。
部屋の左隅に、注連縄と紙垂によって張られた結界の内部にいる男。身なりこそみすぼらしいが、その目つきは暗がりの中からぎらぎらとフィオラを凝視していた。
「どうしましたか」
男は脂ぎった表情のまま、壁にもたれるようにして片膝をかかえていた。
「あ、あんた、なんで……」
ぎらついた視線とは裏腹に、声は震えている。
「眠れないのですね」
足を止めず、結界のすぐ側まで近づくフィオラに、男は胸のうちに溜まっていた感情を吐き出した。
「当たり前だろぅッ……あ、あんな化け物に一度なってみろ、いつまた躰を乗っ取られるか……」
「そのことについては、もう問題ありません」
フィオラは安心させるように微笑を浮かべる。
「妖魔の核になるには、相当量の怨念濃度が必要になります。今のあなたには、核となるだけの濃度は蓄積されておりません」
だが、そうした説明も男の不安を拭い去るには不十分なようであった。
否、妖魔の核となるだけの体験をした男にとっては、フィオラが如何なる言葉を投げかけようと、それによって安堵するということは難しいものであろう。到着直後の惑星において、蓄積していた怨念が暴走、巨大な妖魔となって数人を喰らい殺したとあっては、平常心を保っていられるほうがどうかしている。
「……あんた、なんで、こんな時間に来たんだ?」
「お別れを伝えに参りました」
フィオラの一言に、男の目は今度は驚愕に大きく開かれた。
「まさか、お前たち……ここを出て行くというのか……?」
「ええ」
フィオラにしてみれば、それは至極当然のことであった。
逆に、必要以上に関わりを持とうとする男の言動のほうが、奇妙ですらあった。
「俺たちを……怪我人や俺のことを、置いていこうというのかッ!?」
「お声を静かに」
フィオラは唇に指を当てると、蹲る男に向かって身を屈める。
「私どもの援助は、皆様の新天地への導きまでと申したはずです。妖魔の核になられたお気持ちはお察しいたしますが、それ以上のことは……」
「頼む!」
男はやおら腕を伸ばし、フィオラの肩にしがみついた。
「頼む、金なら払う、だから、俺をここに置いていかないでくれッ……」
がくがくと前後に揺さぶられながら、フィオラの表情が険しくなった。
「あなたは……何者ですか」
細められた瞳でひたと見据えられ、やっと男は動揺を抑えた。
冷静なフィオラの言葉が、一つ一つ、男の胸に突き刺さる。
「ここにいる方は皆、明日をも知れぬ身を<Tiphreth>で過ごしていました……彼等には生きる力はあれど、お金はほとんど持っていなかった」
金なら払う、という言葉は、およそ彼等には似つかわしくないものであったのだ。金が払えるなら、彼等はこうして夜逃げ同然の行為をしなくてもよかったからだ。
「あなたは、何者ですか」
言い逃れを許さぬ、無言の圧力が男に舞い降りる。
もしフィオラが本気になれば、男の口を割らせることなど造作もないことだろう。
だがそれは力の浪費でしかない。殊更に力をひけらかすことは、フィオラの是とするところではない。
男の唇が恐怖と混迷で震えている。フィオラの眼力が、男の精神を強く揺さぶろうとした、そのときであった。
二人の背後で、ごそりと物音が聞こえてきた。
気配を隠すことなく、息遣いと共に男が起き上がる。どうやら、眠りが浅くなっていたところへ、二人の話し声が聞こえたせいだろう。
「どうした……そいつ、具合が悪いか?」
目を覚ましたのは、まだ若い男だ。
その声に、フィオラは怒りとも憐憫とも取れる眼差しを向けてから、ふっと視線を逸らした。
「大丈夫です、少し話をしていただけですから」
「そうかい、ならいいんだけどよ……」
「あなたももう少し休んでいてください。夜明けまではまだ間があります」
フィオラの言葉に、若い男はまたずるずると毛布に包まり、四肢を丸めて目を閉じる。休息を欲していた躰は迅速に眠りの誘惑へと屈し、すぐに規則的な寝息を立て始める。
その光景を静かに眺めていたフィオラは、もう一度結界の中で怯える男を一瞥し、足早に家屋を後にした。