第十六章第一節<Kin-U-Gyoku-To>
古めかしい書物のページを繰る音が、卓上ランプの光だけに照らされた部屋に聞こえてくる。
時刻は、深夜の一時を回ったところだった。
<Iesod>宙域の惑星で逃亡者たちを解放し、ようやく出立の目処が立つまでに一週間。病魔に冒されていた者たちも何とか持ち直し、逃亡者たちはようやく新天地で生きる希望を持ち始めていた。
これ以上、彼等と共にいるのは、お互いにとってプラスにはならない、と判断したフィオラは、出立の日取りを考えていた。
そもそも、彼等は必要以上に干渉され、支配されることを嫌う。彼等が新天地を求めるために地下組織の門を叩いたというのも、自分たちの手で生きていくための足がかりを手にするために他ならぬ。
そのため、自分たちをあの掃き溜めの地から救い出してくれた者たちに感謝の意はあるが、それ以上に自分たちの生活に足を踏み入れてくることは断固として拒絶する。
勝手のいい話に聞こえるかもしれないが、それが辺境の地での生活なのであった。
無論、彼等とてなけなしの金を支払って、ここまでの道を切り開いてきたのである。
持ちつ持たれつの関係であることは、双方に共通していることなのであった。
ふと、ページをめくるフィオラの指が止まった。
形のいい眉がきゅっと寄せられ、渋面を作る。
万事が滞りなく進み、明日にもこの星から飛び立とうと考えていたのだが。
「大禍日……か」
フィオラの家系に伝えられている占術書では、明日は悪日とされていたのだ。
大禍とは七つの禍星であり、また世の理が絶滅する地の伝説を持つ星でもあるという。それら全てを真実と捉えるほどに妄信はしていないが、それでも何かの影響が大きくマイナスに傾く日であることは間違いがない。
少なくとも、明日は動かぬほうがいい。大禍の相が出ているということは、生半可な忌み日ではないということなのだから。
眼鏡を外し、本を閉じ、溜息をつくフィオラの背後で、部屋のドアがノックされた。
この夜更けに、部屋を尋ねてくるとは。
だが、そのような相手など一人しか思い浮かばない。
「開いてるわよ」
その一言でノブが回り、ドアが開く音が聞こえた。
「夜更けに鍵かけないなんて、物騒だって思わないのかい」
声の主はヴェイリーズだった。振り向くことなく、フィオラは本を脇に押し遣り、首を回しつつ呟く。
「あら、それじゃあ夜中に女性の部屋をノックするのは構わないのかしら?」
その一言のあとに訪れた沈黙は、奇妙に、しかしはっきりと不快な漣を含んでいた。
椅子を回転させ、背後を振り返ると、そこには眉間に皺を寄せたヴェイリーズが機械油に塗れた指をぐっと握りこんでいた。
「……ごめんなさい、そういうつもりじゃなかったの」
「で?」
ヴェイリーズは、部屋の中に漂い始めている嫌な空気を振り払うように、ぶっきらぼうな口調で尋ねた。
「明日は出発できそうなのかい?」
「……ごめんなさい、明日はどうも日が悪いみたいなの……」
「なるほど」
腕を組んだまま、ヴェイリーズは壁にもたれかかった。
「ってことは……出発できないくらい悪い日、ってことだね?」
通常、凶相の日には二種類がある。ある特定の方角にのみ凶相が出る場合と、多くの方角に凶相が出る場合である。
前者の場合は、とにかく一方向を避ければいいことになり、その対処方法としては方違えというものがあった。つまり、自分の位置をずらすことにより、目的の方角を相対的にずらすことで、空間呪詛を無効化する方法である。
だが、後者の場合だとそうもいかない。他方向が凶相である場合、もしくは行動それ自体が阻害されてしまうような場合は、通常は無理に行動を起こさず、素直に予定を先送りすることになる。
今回の相は、この後者の状況があてはまるものなのであった。
「その代わり、この星に留まることもかなりの凶と出てるわ。二つの凶相……もし大禍日に恐れてここに留まれば、二つの凶を受けることになる。だから明日に日付が変わったらすぐに飛び立てるようにするといいわね」
「雲行きが怪しくなってきてるなぁ……」
凶相の正体が分かれば、手の打ちようがあるのだが。
黒い霧のように、身辺を取り巻く不快な雰囲気は、しかし決して無視できるほど軽微なものではなかった。
「そっちの準備はどうなんだい?」
フィオラの担当は、主に救済民の看護面である。ヴェイリーズが気にしているのは、ここに到着してすぐに妖魔に変化した、あの男のことであった。
「今は落ち着いてるわ。祓が完璧に出来ているとは言えないけれど、安全値まで低下してることは間違いないの」
「じゃあ、そうなると……」
ぽりぽりと頭を掻くヴェイリーズに、フィオラは思い出したように尋ねる。
「そういえば、あの二人、どうするの?」
フィオラの質問が、ラーシェンとメイフィルを意味しているのだと理解した瞬間、ヴェイリーズの眉間に皺が寄る。
あまりにも分かりやすい反応に、フィオラがくすりと含み笑いを漏らす。
「……なんだよ」
「あなた、あのSchwert・Meisterが苦手みたいね?」
「苦手っていうか……どうも性に合わないんだよ」
「それを苦手って言うのよ」
腰を上げたフィオラは、窓に歩み寄ると薄汚れたブラインドを指でずらし、外の様子を伺ってみている。
少し風が出てきているのか、巻き上げられた砂塵のせいで紗がかかっている。どこにも明かりの灯った窓は見られない。
生を繋ぐことに疲れ切った辺境の者たちは、みな唯一の、そして短い安らぎの時に浸っているのだろう。
「そう嫌うものじゃないわ……それに、悪い人たちではないのは、分かるでしょう?」
「そういう意味じゃないんだよ」
ヴェイリーズは視線を外し、床の一点を見つめた。
悪い人間だけを憎んでいられるのなら、どんなに楽なものか。
ラーシェンの物言いにも一理あることくらいは、自分にも分かっている。
ただ、彼の言葉は、妙に神経に触れるのだ。正論ではあるのだが、素直に首を縦に振れない。
負けず嫌いの性分だ、というのではないだろう。人の意見に耳を貸せないほど我侭でも強情でもない。
しかし、あの男の言葉だけは、不思議と胸中をざわつかせる。
「まあ、あと一日はあるんだし……どっちにしても、一言声をかけておいたほうがいいと思うわよ」
「分かってるよ」
フィオラは窓から離れると、腕を伸ばして躰を伸ばす。
「さてと、じゃあ私はそろそろ休むわ」
「了解、邪魔したね」
右手を振りながら、ドアへと向かうヴェイリーズ。
「風、強くなってるから、気をつけるのよ」
ばたん、とドアの閉まる音が聞こえた。
その寸前、外の風音が甲高い悲鳴のように、フィオラの鼓膜に届く。
それは、無数の慟哭。決して拭い去れぬ、そしてこれまでの時間の中で流した涙の数だけ重なり響く、無念の声。
あの子は、私よりも若いのに。
眠れぬ夜に流した涙が決して少なくないことを知っているフィオラは、自嘲気味は微笑みを浮かべながら、スタンドの光を消した。