第十五章第四節<Organic Network>
一体、どの段階でこのシステムに干渉されたというのだろうか。
ニーナはディスプレイに向き直り、顎に手を当てたままじっと沈思する。
背後では操縦士たちがシステムの復旧に取り掛かってはいるが、依然として混乱は続いている。式場内には魔力を感知してはいるものの、周辺領域の監視システムはオールグリーン。
これでは、まるで。
まるで、転送されたようではないか。
艦船の回廊への転送技術は実用化にまで至ってはいるが、人間レベルの転送はまだ実験段階を出ていない。
軽い頭痛を感じながら、ニーナは全神経を集中させる。
考えろ、考えろ。
セキュリティにホールがあったのは間違いがない。それがどれだけ微細で取るに足らぬものであったにしろ、存在しているのだ。
自分がいながら、相手の侵入を許してしまった。その不甲斐なさに、ニーナは奥歯を軋らせる。
いや、まだだ。
こうなってしまった以上、遅いかもしれないが、それでも万全を尽くす必要はある。全てのシステムをスキャンして、相手に突かれたホールの所在を確かめなくては。コンソールに義手を置き、ケーブルを接続しようとした、そのとき。
「お取り込み中、申し訳ないんだけど?」
感覚の断絶があった。
その事実だけが、ニーナの顔を強張らせる。
聞いたことのない声であった。同時に、S.A.I.N.T.としてのニーナの感覚に滑り込んでくる、触手のような殺気。こちらの精神の敏感な点を探し出し、ひとたび発見されたなら容赦のない攻めで一瞬にして恐怖と狼狽と混迷に囚われてしまうであろう、狡猾な気配。
それと同時に、ニーナの鼻腔に忍び寄る空気があった。
背後の気配を読むために鋭敏にした感覚に触れてくる、その臭気。
間違えようがない、それは血臭であった。
はっとなり、ニーナが振り返る。その動きが、相手に付入られる隙を作ることになろうとも、ニーナはそれを躊躇わなかった。
今しがたまで、言葉を交わしていた相手なのだ。人道的な判断力がまだ幾許かでも残っているのだとしたら、その反応は普通であるはずだ。
そして視界に飛び込んできた操縦室には、まさに惨劇の痕跡がありありと広がっていた。
自分と相手を除き、生存できている者はいない。床に伏せる者は、ゆっくりと広がっていく血の海に浸され。機材に縋る者は、鈍銀色の金属をねっとりと血糊で濡らし。大きく開かれた瞳には、最期に何が映されていたのか。引き攣るような口からは、音のない断末魔が緩慢に響いてくるかのように。
それら、およそ地獄の亡者に囲まれるようにして立っているのは、深い赤―臙脂色のドレスを纏った女だった。
緩やかな波を打つ髪は、露にされた肩や、大きく開かれた胸元を隠すように垂れている。腕を胸の下で組み、まるで周囲の惨劇が目に入っていないかのように、微笑を宿している。顎を引き、こちらを覗き込むような視線を向けて、女はひたと見据えてきている。
「……なんだい、あんた」
「この艦……落とさせてもらうわね?」
女がそう囁いた瞬間、二人は足下の床が抜けるような、落下の衝撃を味わった。
「あ……あんた、どうやってここに!?」
「この程度の結界、無効化するなど造作もないわ」
まるで自分を取り巻く結界が見えているかのように、女は部屋の中を見渡した。
「……それとも、私がどうやって、この艦に乗り込んできたのかを知りたい、ってこと?」
ニーナは女と対峙しつつ、同時に意識を王家のホストサーバーに連結させていた。記録されている膨大な魔術圧縮文書、Malefique Archivesのリストの中から検索を開始し始める。
無言となるニーナに、女は何かを誇示するかのように右手の五指を広げてみせる。
そこには何もない。ただ白く、細い指が開かれているだけだ。
目立った反応を見せないニーナ。
女は腕を突き出したまま、微笑みを宿し。
次の瞬間、両者の距離は十分の一以下にまで縮められた。
互いに踏み込んだのではない。残像すら残さず、そして一瞬の加速によって、女がニーナに突撃を仕掛けたのだ。
無手であるとばかり思われていた右手には、いつしか儀礼剱が握られている。その切っ先は、正確にニーナの眉間を狙っていた。顔の高さにまで、そして床と並行になるように構えられたということは、確実にその一撃で、ニーナを殺害しようという目的のための攻撃であった。
だが、切っ先は眉間には届いていなかった。
眉間から十数センチの距離で、あれだけの加速にもかかわらず、女の動きは止まっていた。
交錯する視線の間隙で、光が弾けた。その瞬きで、ニーナの躰の前面を覆うほどの規模の紋章が刹那、空間に浮かび上がる。いつ出現したかも知れぬものであったが、その力によって今しがた、自分の攻撃が無効化されたことだけは確かなようであった。
このときになってようやく、女の表情から笑みが消えた。
「……あなた、いつ、詠唱を……?」
「そうかいそうかい」
ニーナの眼帯に光が宿った。まるで義眼を嵌めこんだようなその光を女が見た瞬間。
女の目の前から、紋章に守られているはずのニーナの姿が消失した。
握る儀礼剱から伝わってくる手ごたえが消え去ると同時に。
空中に単独で残存する紋章から、数発の魔力の塊が射出された。
至近距離、しかも虚を突かれた女は回避することが出来なかった。一発一発は、単純ながらもそれなりの魔力を込められた弾丸だ。紋章を構成している力を弾丸に転化させて生成したそれらは、直撃すれば肉体の一部を吹き飛ばすだけの力を持つ。
女は咄嗟に剱を防禦に用い、弾丸を次々に弾いていく。
だがそれは、女に大きな隙を生むこととなった。
何故ならその瞬間、女の神経は弾丸の無効化に集中させられていることとなる。つまり、見失ったニーナへ向けられる注意は、最低限度にまで削られているのであり。
「戦いの最中に無駄口を叩くのは、弱い証拠だね」
己の肉体へ施呪することにより、一瞬ではあったが移動速度を倍化させたニーナは、女への攻撃を魔力の弾丸に任せ、自分は移動に徹したのであった。
結果として、女の感覚からはニーナが完全に姿を消したように感じられていることだろう。
そして、素早い魔術行使こそが、ニーナがS.A.I.N.T.として誇る技術なのであった。
the Soldiers of Alliance for Interchannel with Nextage Terminal. 通称S.A.I.N.T.。
星団有数のChevalier、FaculteurおよびFacultriceによって作られた超戦闘集団である。彼らは生体機材を用いた次世代VAを脳幹、脊髄に有機融合しており、操作ではなく思考の速度で各種特殊能力を用いることができる。
その中でもニーナは超速魔術に特化した技能を持つS.A.I.N.T.であった。
通常、人間の運動とは電気信号が脳から脊髄、神経網を辿り筋肉まで伝達されることによって行われる。その際に生じる意識と運動との誤差は、それが一秒を限りなく刻んだ末での一つ分だとしても、やはり零にすることはできぬ。
しかし、それは稼動する筋肉に信号がいたるまでの誤差である。
もし、意識の時点で何等かの変化を発動させうる魔術であれば。恐らくは、いや間違いなく、常人では反応できぬほどの速度で魔術行使が出来るはずであった。
その理論に基づいて完成させられたのが、ニーナが持つ特殊な生体ネットワークなのであった。
意識の速度で実装された魔術アプリケーションを起動、もしくは王家サーバーからのダウンロードを行う。同時に精神を半強制的に魔術集中に必要な瞑想状態に、特殊な波長によって移行させ、さらに高密度の代理詠唱を義手に内臓されたコンピュータによって並行操作。
このシステムの利用時の魔術発動速度は、運動する際の誤差の五分の一にまで切り詰められている。
魔術師の有事における最大の弱点である、瞑想と詠唱という二大致命点をほぼ完璧にフォローするシステムを持つニーナは、S.A.I.N.T.の中でも屈指の魔術師として名を馳せるに至っていた。
背面に回りこんだニーナは、最早躊躇いを見せなかった。
無防備な脊髄に、ありったけの魔力を叩き込む。
それによって、下手に練られた呪紋よりも、破壊に特化した目的の場合は素早い攻撃が可能となる。
何かの結界を纏っていることは充分に予想されたが、ニーナの攻撃がそのような結界に阻まれて四散するとは、彼女自身にも思えなかった。
しかし、女の躰に魔力は届かなかった。全弾を打ち返した剱は、そのままの速度でぐるりと頭上を越えて弧を描き、まるで位置を正確に把握していたかのように、ニーナの魔力を受け止めたのだ。
「その言葉、覚えておくわよ?」
「てッめぇ……!」
決して上品とは言えぬ罵倒を呟くニーナ。その目の前で、女は背中を向けたまま、首だけを動かして囁いた。
「さて、それでは私は失礼するわね。私の目的は貴女を殺すことじゃなくて、この艦を落とすことなんだから」
戦闘に集中しつつも、ニーナもまた艦の状態を常に把握し続けていた。
既に惑星の引力からは、如何なる手段をもってしても逃れられない高度にまで達してきている。それに、生き残っている操縦士がいないことからも、艦を元の高度にまで復活させるのは不可能であった。
次第に震動が激しくなっていく中で、女は不敵に笑ったままであった。