第十五章第三節<Unbody Apostle>
刹那、ジェルバールの鼓動が動きを止める。身を包む死の予感。だが、その圧力に屈することなく、再び力強い鼓動を再開するだけの生命力を、ジェルバールは有していた。
霞む視界、震える四肢。何とか持ち応えたものの、躰は確実に心臓の一時的麻痺の影響を蒙っていた。冷たくべたつく汗が全身の毛穴から噴出し、下着を濡らす。
頬を伝う汗を感じるよりも早く、一瞬でも死神の鎌を喉元に突きつけられた精神が、恐慌状態の一歩手前まで断崖を転げ落ちる。
「……ジェルバール様?」
間近でイルリックに名を呼ばれ、我に返る。眼前のイルリックの様子に変化はない。だとすれば、今のは自分だけに向けられたものか。
汗を拭う間も惜しみ、躰を起こして群集を見やる。
異変は、ない。
「ニーナ様!?」
悲痛な叫びが、監視艦ブリッジでも同時刻にあがっていた。
「なんだい!!」
「式場中央に、強烈な魔力反応を確認……そんな、予兆だってなかったのに!!」
そこに至り、ニーナは自分の感じていた違和感の正体をしっかりと認識した。
これだけの広域の探査結界で、10時間以上、何も警戒信号がないということ自体がおかしいのだ。目標を識別信号を発信する艦船に限定していないのならば、宇宙空間に漂う無数の岩石群が抵触することもなく、これだけの時間が経過すること自体が奇跡なのだ。
それはすなわち、こちらの探査結界の監視信号を意図的に改竄されていたことになる。
相手は、こちらに勘付かれることすらなく、監視システムに侵入していたのだ。その事実は何より、ニーナへの完全なる侮辱であり、また挑発であった。
何故なら、ニーナ・ジュエルロックは、王家のホストサーバーにある魔術文書を最大限に使うことの出来る、生体ネットワークの熟練者であったのだから。
硬直するジェルバールは、眼前に見た。イルリックの背後に渦を巻く、凄まじい魔力の渦を。
それは中空で古書の頁となり、無数にはためく茶褐色の竜巻となる。
護衛騎士は、何をしている。
イルリックについても、守護を担うS.A.I.N.T.がいるであろうに。
「何処を見ている」
男の声が、すぐ背後で聞こえてきた。
振り向くことも、誰何の声を発することも出来なかった。
ぐい、と襟首を掴まれた瞬間、ジェルバールは後方へと投げ飛ばされた。受身すら取れず、背後にそびえる巨大な石碑に激突するジェルバール。
そのときになって初めて、ジェルバールは己に襲い掛かった人影を見た。
頭からすっぽりと幽鬼のような黒い布をかぶっている人影。それだけならば、彼の護衛騎士であるフェイズ・ドラートと酷似してはいたが、腕の太さが違った。ほつれ乱れた布から覗く二本の腕は、ここまで鍛え上げられるのかと思わんばかりの筋組織がうねりながら絡み合って形成されている。
しかし、その映像は一瞬であった。
石碑に無数の亀裂を入れるほどの力で叩きつけられ、肋骨が軋みをあげたジェルバールが落下するよりも早く、拳打が襲い来る。石碑への激突すらも生温く感じるほどの、確実にこちらの死を狙った攻撃。容赦もなく顔面に命中した拳打はジェルバールの鼻梁を打ち砕き、鼻腔から濃い血液を溢れさせる。
たった一撃であったが、間違いなく衝撃は頭蓋骨に亀裂を走らせ、骨の破片を頭部へと散逸させているであろう威力だ。
鼻梁と口腔とを同時に破壊され、溢れる血液で喉が詰まり悲鳴を上げることもできない。呼吸すらままならずに動きを止めたジェルバールへ、第二撃の蹴打が腹部に叩き込まれる。まるで磔にされたように、無防備で攻撃を食らうジェルバールの躰が二つ折りにくずおれる。丸太が充分な加速をつけて激突したかのような衝撃が、人間の足裏の密度で放たれれば、腹筋など容易に断裂されてしまう。
内臓破裂をも引き起こしかねぬ一撃が腹筋を破壊した瞬間、続けざまに左足が顔面を直撃。側頭部への攻撃であったなら、一瞬で頸骨が砕かれ、脊髄を破壊されて即死していただろう。しかし第一撃と同様に正面から足裏で石碑へ押し付けるような攻撃は、ジェルバールを殺害することよりも、顔面を徹底的に破壊することを目的としているようだった。第一撃で破損状態にある頭蓋骨は大きく陥没し、顔面はただの肉塊と化しているだろう。眼球が潰れ、裂傷と内出血に彩られた無残な顔。そして脳へも致命的な損傷を受け、ジェルバールは無残な亡骸を晒して死ぬだろうと思われた。
だが人影の視界から、鮮血に染まったジェルバールの姿は掻き消えた。
代わりに伝えられた感覚は、首筋に当てられた冷たい鋼。
「どうだ、幻影を嬲り殺した感想は……?」
何処に姿を隠していたのか、刺客の背後をとったフェイズは抜き身の剱を突きつけていた。
無論、ジェルバールは無事であった。咄嗟に相手の知覚神経に見分けられぬほどの幻影を送り込み、相手に最大限の隙を生み出させる。
その幻術の凄まじいまでの切れが、フェイズの得意とする戦術であった。
背後を取られ、動きを封じられ、しかしなお人影は拳を軽く握ったまま動かぬ。
「名を聞こう」
「バルドヴィーノ・ザッポーニ」
声は低く、まるで大地の鼓動のように響いた。
「我等の襲撃を阻止できぬお前たちが、何を言うか」
バルドヴィーノは首だけで振り向く。露になった口元が笑みに歪む。
……我等だと?
その言葉は、悲鳴によって証明された。
群集の中の女が上げた絹を裂くような声に振り返ったジェルバールは、見た。
殺気に慣れてはおらぬイルリックが立ち竦む背後で、やはり闖入者に向き合うS.A.I.N.T..リルヴェラルザ・スワローゾ。
フェイズとは対照的な純白の長衣を纏ったリルヴェラルザの手には、針のように鋭く、氷のように澄んだ剱が一振り、握られていた。
その眼前で右手を突き出しているのは、伸び放題の髪の毛に顔を隠した亡霊のような男。右手には身長を超える丈の大きな鎌が握られており、それはリルヴェラルザの頬を浅く切り裂いていた。
それは、刺客がジェルバールとイルリックの命を狙っていると見て間違いはなかった。
「何ゆえ、王族を狙う?」
リルヴェラルザの問いに、深く俯く男は痩せ細った指で鎌を掻き掴み、呟いた。
「我が名はヒュー・サマセット……何ゆえ、と問われても、我等は答えを持たぬ」
婚礼の式場が、一瞬にして殺戮の場へと変じかねないその状況で、群集が狂乱に陥っておらぬのは奇跡であった。
誰もが眼前の光景を直視し、そして恐慌状態に陥っていることは間違いがない。そして、闖入者である拳闘士バルドヴィーノと死刑執行人ヒューの放つ殺気は、一般の人間が混乱する遥かに越えた濃度で放たれているのであった。
結果として、群衆は一人残らず、蛇に睨まれた蛙のごとくに、自らの躰の自由を奪われたまま立ち竦む。逃げ惑うことは愚か、悲鳴すら上げられずに。
「だが、これで分かっただろう? 我等L.E.G.I.O.N.は、貴様等の監視システムをいとも容易に出し抜けるということを」
まさか、これだけの王族公開殺戮未遂が、ただのデモンストレーションだというのか。その気になれば、S.A.I.N.T.らの存在に関わらず、今頃はジェルバールとイルリックの血塗れの屍骸が壇上に晒されていたというのか。
だがそれは、対峙している二人のS.A.I.N.T.への最大限の侮辱であった。
「面白い。これが我等の最大の力量だと、そう思っているのか!?」
柳眉を逆立てたリルヴェラルザは、頬を伝う血を拭うことも忘れ、眼前の死刑執行人をひたと見据える。病的なまでに血の気のない唇をゆがめると、ヒューは嘲笑した。
「思ってはいないさ……ただ、動けぬのであろう? 王族の手飼いの犬は、主の目の前で獲物に歯を突き立てることすらできず、お伺いを立てているのだろうな?」
その一言は、リルヴェラルザの最後の理性を打ち砕くのには充分すぎた。
「……よかろう、ならば貴様の首、このまま……!!」
リルヴェラルザの殺気が剱に宿る瞬間、ヒューの躰はふわりと宙に浮いた。
飛んだのではない。恐るべき脚力で後方へと跳び、遥か間合いの外へと離れたのだ。
同時にフェイズが牽制していたバルドヴィーノもまた、壁を蹴り付ける反動によって空中で躰を一回転させ、ヒューの側へと着地してみせる。
「逃がすかッ!!」
「よせ!!」
気迫のこもったリルヴェラルザの声にフェイズが制止に走る。
既に二人の刺客の周囲には、出現したときと同じく、奇妙な古書の頁が渦を巻いているのだ。二人を護るように、その姿を隠すように。
もし、リルヴェラルザの放つ攻撃よりも早く、あの者たちが姿を消したなら。
容赦のない、研ぎ澄まされた一撃は、その背後にいる客人たちを襲うであろう。そうなれば、目を覆う惨事になることは明白だ。
「これからも、我等は貴様等を狙い続けてやろう……命が惜しくば、秘儀の王冠に至る鍵を差し出すことだ……」
リルヴェラルザが結晶の剱を振り抜くよりも早く、後ろから腕を組み付かせたフェイズが動きを止める。
抱きかかえられたまま、リルヴェラルザとフェイズ、ジェルバールとイルリック、そして無数の群集の目の前から、L.E.G.I.O.N.の二人の姿が消失した。
ようやく、狂乱の宴は第一幕を閉じるか。
頭上から震動音が轟いたのは、そう胸を撫で下ろしかけた、まさにその瞬間であった。