第十五章第二節<Vanity wall>
遠くに祝砲の音が、ややくぐもって聞こえてくる。
ジェルバールは普段とは違い、白一色に染め上げられた礼服姿で、控え室に静かに座っていた。ふと目を窓に向けると、その向こうは抜けるような青空だ。それが擬似天候であると分かっていても、蒼い空を見る心地よさは何にも代え難いものがある。
視線の先に、新たな祝砲の煙がぱっと散る。
ジェルバールは椅子を立つと、そのまま窓辺に歩み寄った。礼服は厚手の生地で創られた詰襟の上着に、左の胸に王家の紋章があった。
甲冑を纏う雄牛は<Taureau d'or>の紋章。それに白と黒、二振りの剱が互いに交錯するものだ。上着の裾は左右に長く垂らされており、きっちりとアイロンのかけられたパンツもまた同じ生地によるものだった。こちらはタグに沿って紺色のラインがあつらえてあり、強いコントラストがアクセントとなっている。
首元に巻かれた絹のスカーフを白い手袋ごしに弄んでいたときであった。部屋の扉を控えめにノックする音が聞こえてくる。
「どうした」
「お時間でございます」
先導する紳士を伴って式場に入ったジェルバールは、段上にある椅子に腰を下ろした。
新郎が最初に入場し、花嫁を出迎えるというのが、王家の婚礼のしきたりであった。その際、新郎は階段の下まで来た新婦の手を取り、共に段上へと上る決まりになっている。
背筋を伸ばし、ジェルバールは招待客の中に伸びるヴァージンロードの彼方を見やる。その横顔には、新婦を恋焦がれる男の表情はない。憂いと、静かなる絶望と、そして秘めやかなるもう一つの感情が入り混じった、横顔であった。
時を同じくして、会場上空一万五千メートル上空に静止する監視艦では周辺宙域全てに五秒おきにカバーする索敵警戒態勢を維持していた。
全ての項目に緑色の文字が点滅している。あの文字が要警戒にならぬ限りは、安全管理体制は継続して取られることになる。
「監視システム、オールグリーンです。警戒態勢移行時より連続40000秒継続しています」
「無駄口を叩くんじゃないよ」
言葉自体は厳しいが、口調は部下をからかうような軽いものだ。
報告するオペレータの背後に立っているのは、背の高い女性だった。髪型だけでは、男とも見紛うばかりに短く刈り込まれた頭。元々硬い髪質なのか、つんつんと棘のように無造作に突き立っている髪は、一目見ただけでは誰もが判断を誤るだろう。
浅黒い肌をしているその女性は、丸い眼鏡を鼻の頭に乗せていた。果たしてその眼鏡で視界が確保できるのか疑問であるくらいに小さいものであった上に、左眼の部分には幾本ものワイヤーが接続された奇妙な黒い眼帯をしていた。衣服はオペレータのような制服ではなく、袖のない前あわせの上着を帯できつく締めているだけ。さらにその上から厚手の外套を纏い、腰には細身の剱を一振り吊っている姿だ。
だがもっとも奇妙なのは、女性の左腕であった。肘から先が黒い革の手袋に覆われていたが、質感といい動きといい、それは明らかに義手であった。
女性の名はニーナ・ジュエルロック。
「40000秒継続で安全確認したって、40001秒後から相手が行動を始めたら何にもならないじゃないか」
その言葉に、オペレータたちは沈黙してしまう。
ニーナの言葉を正しいと感じたからではない。この監視艦にニーナが乗船したときのこと、もしかしたらもう会場にL.E.G.I.O.N.の手の者が潜入してるかもしれぬ、と不安がるオペレータに、ニーナはこう檄を飛ばした。
『あたしたちが遅かったなんて考えるんじゃないよ、あっちが自分たちより早く用意できるはずがないだろ? 自惚れも使いようってヤツさ』
しかし、言っていることが違う、などとは口が裂けても言えるわけがない。口調や言葉遣い、そして雰囲気がどうであれ、ニーナは紛れもないS.A.I.N.T.の一員なのだから。
「さぁ、いよいよ式が始まるよ……あんたたち、これからが正念場だ!」
ざわり、と招待客が一斉にヴァージンロードの出発点を見やる。
いよいよ、花嫁の入場であった。背後に二人、ドレスの裾を持つ子どもを控え、花嫁であるイルリック・ブルーアヴローが厳かな足取りでこちらへと歩いてくる。
式次第に従い、ジェルバールは席を立つと、祭壇の中央まで歩を進め、イルリックと対峙する。ジェルバールの姿を見たイルリックは、その場で足を止め、優雅な礼をしたのち、再び歩き始める。
二人の距離は、およそ50メートル。
もう間もなく、式は本番を迎える。
「……ん?」
腕を組んだままだったニーナは、オペレータの肩越しに一つのディスプレイを覗き込んだ。
そこに並ぶデータは、センサーの正常作動を示しているだけである。問題はない。だからこそ、オペレータも反応を示さない。
だが、何かが気に掛かる。
花嫁の歩く速度というものも、典礼に記されているものに従う必要がある。故にイルリックの進む速度は、見るほうが焦れるほどに遅い。
その時間、ジェルバールは直立の姿勢のまま、じっと待つのだ。ただひたすら。数多の思惑と政策が交錯する、この穢れた婚礼の場で。
「ニーナ様?」
「……ん、うんにゃ、なんでもないよ」
手をひらひらと振って、ニーナはオペレータの席を離れる。
否定はしてみたものの、疑念は拭い去れない。胸のうちで鳴り響く警鐘は、いまだかつて空耳だったことはない。今回も、何かが迫っている。だが何が?
十分近い時間をかけ、ようやくイルリックは階段まで辿り着いた。
ここの階段は、花嫁が一人で上るのではない。新郎と手を繋ぎ、共に歩むのだ。
典礼によれば、それは新郎新婦が共に手を携えて乗り越える苦難の象徴であるという。そんなことを想起しながら、ジェルバールは階段を下り、緋色の絨毯の上で待つイルリックに手を差し伸べる。
ほっそりとした、白い霧のような袖から覗く右手が上げられた。
両者の指が互いに触れ合う、そのとき。
「戦一つに勝った程度で婚礼とは……悠長なものだな?」