第十五章第一節<Desert hall>
今夜は風が強い。びょうびょうと吹き付ける風は耳元で鳴り、整えられた髪が風を受けて、一房が額にかかる。それを撫で付けようともせずに、ジェルバールはゆっくりと歩を進めていた。
明後日はこの風も止んでくれるといいが、などと考えてから、ジェルバールは自嘲気味に笑った。
一体どうしてしまったのだろうか。風を止ませることなど、造作もないことだろうに。振り仰げば、闇に沈みかけた天蓋には、星の瞬きの代わりに継ぎ目が見える。
そう、ここは正確には屋外ではない。あたかも屋外であるかのような外装を模した、式典会場なのだ。太陽光とほぼ同じ光線を放つ、そして特定の光源を持たない特殊な板状ライトが会場のあちこちに配備され、もっとも心地よい明るさを設定することが出来る場所。
ジェルバールが立っているのは、臙脂色の絨毯の敷かれることになっているヴァージンロード。道はまっすぐに伸び、階段を上ったその先には大きな祭壇と、王家とその血統に関わりの深い家筋の紋章が綴られた旗が並んでいる。
中央で向かい合っているのは、王家の紋章と、イルリック姫の家の紋章である楯を掲げた白鳥。全ては、二日後の婚礼を目指し、着々と準備が整えられている。
その様子を見つめながら、ジェルバールが嘆息を漏らしたときであった。
「セシリア様の情報をお伝えに参りました」
その声に、ジェルバールは僅かに首を動かしただけで応えた。
影のように付き従う、闇色の従者フェイズ・ドラートであった。
「セシリア様は現在、カルヴィス・ウーゲル中将とともに<Iesod>を航行中……反政府組織の鎮圧と、財務政務省幹部の拿捕を任務としているようです」
「裁判長の狸が……」
自分たちの足下を突き崩しかねない不遜の輩の始末など、本来であれば軍部が介入するべくもなく、警察機構が携わる仕事だろうに。
「……ドラート」
「何でしょうか」
「お前は、これをどう思う」
頭上を仰ぎ、独語のように呟きつつジェルバールが尋ねる。
「ご質問の意味が、分かりかねますが」
「この婚礼の儀を、お前はどう思う?」
ゆっくりと歩を進めながら、ジェルバールは祭壇に向かう。
「聞けば、この婚礼のため、治下の惑星の税率を上げたというではないか。それも父上の勅令としてだ」
フェイズからの返答はない。
「税を上げる必要が何処にある? 王家の財力をもってすれば、この程度の婚礼など百をこなしてもまだ充分に余裕があるだろうに」
階段を上りきり、壇上からフェイズを見下ろす。
「それに、何故この情勢下で、のうのうと婚礼などやっていられるのだ!? 同じ血を分けた者たちが、今も宇宙の果てで死に臨む激しい任務をこなしているというのに……どうして、今でなくてはならんのだ!!」
「ブルーアヴロー家のご当主が病に倒れ、明日をも知れぬ身と聞いております、婚礼の日取りを早めたのはそれゆえかと」
「お前はその理由で、納得が出来るのか?」
ばさり、とジェルバールの外套が風を受けてはためく。
「ブルーアヴロー当主一人の自己満足のため、一体何人もの民衆が貧困に喘ぎ、その日の食事すらままならずに病に伏せ、命を落としている?」
答えはない。当然だ。疑念を抱く自分ですら、その問いに答えを出しかねているのだから。
「……済まん、八つ当たりだった」
「ジェルバール様」
俯き、ジェルバールは肩を落として階段を下りる。
「私は、不安なのだ……果たして自分が、この世界に必要な人間なのかどうか」
黒い手袋に包まれた指で、風を受けて膨らむ外套の胸元を握り締める。
「民衆から搾取し続けた地位に生まれ、その世界が当然であるかのように生きてきたが……そのような生活など、世界に何も生み出さん」
フードを目深にかぶったフェイズの顔に宿る闇を凝視し、ジェルバールは続ける。
「お前のように技を持つでもなく、ただ中途半端なChevalierの血を受け継いだだけの、この私が、一体この世界に何が出来る?」
両者の間に、沈黙が流れる。
ただ、ジェルバールの苦悩がそのまま沈殿する澱のように、じっとりと、二人の四肢に絡みつく。言葉を発することも、ましてや動くことも出来ぬまま、時は過ぎる。
「……もし」
先に口を開いたのは、やはりジェルバールであった。
「もし、私が、王家を……」
言葉が途切れた。
言わぬのではなく、言えぬのだ。それを口にしてしまったが最後、自分が求め縋るよりどころを失ってしまう気がしたからだ。ずっと胸中に抱いていたそれは、だがやはり言葉にはならなかった。闇から向けられる視線に耐えかね、ジェルバールが顔を背けたとき。
「私は、何があろうと、ジェルバール様の守護騎士でございます」
これだけの権力と地位を手中に置きながら、本当に信頼できる人間というものに恵まれなかったジェルバールにとって、その言葉は何にも代え難いものであった。
「……ありがとう」
その言葉を、胸の底から口に出来たのは、一体何年ぶりか。
およそ、この世界の真実を知らぬ幼少の頃以来ではなかったか。感謝の意を伝える言葉に、これほどのものがあろうか。普段耳にする言葉の、何と薄く平坦で、そして空虚なものか。
「ジェルバール様」
心地よい響きを持つフェイズの声が、再び聞こえた。
「この情勢下、と先ほどはおっしゃいましたが……恐らくは、L.E.G.I.O.N.はこの婚礼の儀をも監視していることでしょう」
「やはり、<ハトホル>の件も、奴等の仕業と考えるべきか」
「あの呪的戦略艦の索敵結界を無効化できる技術を、<Dragon d'argent>が開発していれば、話は別でしょうが……」
「ありえんな」
ある程度まで目をくらますことはできるが、完璧な隠形をやってのけるだけの技術は、自分たちにもない。
「先日の決議の結果、動きを見せたS.A.I.N.T.はまだ一人のみです。残りのうち、リルヴェラルザはイルリック姫の警護に当たっておりますので、残り三名は、動向を見ているかと」
残念ながら、現行の警備体制でL.E.G.I.O.N.に対抗できるとは思えぬ。
相手に対しての情報が一切ないままで、通常の警備が効果を発揮するわけがないのだ。
人海戦術と剱と銃弾とで何とかなる相手なら、苦労はしない。
「では、衛星軌道上の監視艦に、ジュエルロックを配置する。直接妨害を挑んでくるのならお前たちに……間接的なものならジュエルロックが回線を通じて何とかしてくれるだろう」