間章ⅩⅣ<S.A.I.N.T.>
静謐に包まれた空間を、滑るように移動する影があった。幽鬼のような、黒い長衣の裾を揺らして進むその姿は、知らぬものが見れば狼狽しつつも退魔の文句を声高に唱えるであろう、不吉なものであった。
しかし、それはれっきとした生身の人間。ほとんどの音を吸収し、また歩を進める際にも不用意な足音を立てぬよう、床に敷き詰められた絨毯のためであった。耳を澄ませば、かろうじて拾い上げられるほどのそれ。時折、影の腰のあたりから金属同士がぶつかりあう音が漏れてくる。
影は腕をあげて目の前の扉に触れると、それはやはり音もなく左右へと開いていく。
中央に出来た間隙から流れ込んでいた空気が冷たい。
それを感じた影は刹那足を止め、そして再び短い廊下を歩みだす。
今度、行く手に立ち塞がる扉は、これまでのものとは違っていた。黒ずみ、磨耗し、使いこまれた樫の扉。その扉に近づいた影は、しかし開け放とうとはしなかった。鼻先が触れるほどに近づき、そして足を止める。
「入れ」
何等合図を送っていないにもかかわらず、内側から許可の声が聞こえてくる。同時に扉が蝶番を軋ませ、招くように少しだけ開いた。
「ご多忙の折、大変失礼致します」
影は男の声を発し、そして室内へと踏み入れた。
黒い部屋であった。絨毯、壁、調度品の類は全て黒で統一されており、壁面を覆い尽くす書籍の革表紙も全て黒。対峙する壁は全面が窓となっており、その向こうには深淵たる宇宙空間が続く。
男は数歩進むと、その場で膝を折った。
「お前にそのような礼を求めてはいない」
窓を背にした机についているのは、厳しい顔をした男であった。
一切の誘惑をも撥ね退ける、超人的な意志を宿した瞳を持つ男、ジェルバール。<Taureau d'or>王家の太子、ジェルバール・グルグ・アイニーク・フォレスティア。
三日後に迫る婚礼を前に、身辺の警護が固められつつある今、こうした非公式の面会が許される者の存在自体が、極めて特例的なものであることを物語っている。
男はそれでも頭を垂れると、ジェルバールの前で背筋を伸ばす。
「何用か」
「……これを」
男は近づき、ジェルバールの前に一枚の書類を置いた。それに目を落としたジェルバールの眉が、不快そうに寄せられた。
「……父上が?」
「このたびの、<Chesed>にて破壊された<ハトホル>の件によりまして、我等S.A.I.N.T.の活動におけるあらゆる事項への超法規的許可が下りました」
「そんなことは聞いていないぞ」
「はい、ごく近しい方のみでの密談であったと」
近しい者の中に、実の息子は入れられぬというわけか。
「これに伴いまして、王家の呪紋機密文書の封印解除が、60%まで解禁されました」
次に影が置いたのは、一枚の映像記録式カード。ジェルバールはそれを手元のドライブに挿入し起動すると、目の前の画面に不鮮明な映像が映し出された。
「これは……<ハトホル>?」
「はい」
男の返答と同時に、画面には深緑の長衣を纏う男が映し出された。
ジェルバールの表情が変調する。音声はない。
向かい合った乗組員と深緑の男とが対峙し、そして男が駆け、その姿が幻のようにかき消えた瞬間、映像は断絶した。
「その記録が、今回の決定の決め手となった模様です」
「S.A.I.N.T.への指揮系統はどうなっている」
「現在、各人に行動に関わる全ての権限が任されております」
「とすれば……私からの依頼は有効だな?」
ジェルバールは机の上で指を組み、男を見上げた。書類とカード。二つへの返礼は、一枚のディスクであった。
「これは?」
「私の権限で解禁できる封印解除だ。お前とジュエルロックの二人に託す」