第十一章第一節<Emergency notice>
魔術と科学。
この両者が相容れぬ関係をとっていたのは、今からおよそ百数十年ほど前までのことであった。
前時代の文化として挙げられるものの中の一つに、量子力学というものがある。量子力学の中に「シュレディンガーの猫」という話があった。
外からは見えない箱の中に猫を入れ、同時に時間の経過によってある確率で毒ガスを発生する装置を入れる。箱を閉じてから数時間後、箱の中の猫はどうなっているだろうか。
一般的に考えれば、箱を開けて見さえすればいい。猫が生きていれば装置は作動しなかったのだと分かるし、猫が死んでいればその数時間以内に装置が作動して猫が死んだのだと分かる。
では、箱を開けないまま猫を観測するにはどうしたらいいか。
ここで量子力学は、猫は50%生存し、50%死んでいるという、奇妙な結論を導き出す。
一見、何の役にも立たない理論ではあるが、突き詰めれば、「観測が状態を決定する力を持つ」という結論に繋がる。観測、という概念をどこまでとするかによって議論が分かれる場合があるが、百数十年前の魔術師はこう考えた。
観測、つまり人の意志もまた、状態を決定し、この世界に影響を及ぼすのではないか。
前述の猫の事例を再び取り上げる。
二つの筒が縦に取り付けられており、上の筒の底は一定の確率で開閉するようになっているとしよう。
今、上の筒にガラス球を入れる。数時間後に観測する際に、この特殊な理論を用いるならば、上の筒にも下の筒にも50%ずつの確率でガラス球は存在する。
では、ここで観測者に心理的な効果をもたらし、下の筒に100%ガラス球が存在すると思い込ませて観測したならば、ガラス玉は下の筒に存在することになる。たとえ、上の筒の底が開かなかったとしても、理論上はガラス玉は下に転移していることになる。
理論上のものであった霊的物理学を発展させることによって、それまでは不可能だとされてきた様々なことが可能になった。眉をひそめる古参の科学者らもいたが、目の前で次々に現実のものとなる魔術的現実に、彼等も口を閉ざさざるを得なくなった。
不思議なことは何もない。超古代においては魔術が、そして数百年前の人間においては科学が、それぞれの最先端のテクノロジーだったのだから。
<Taureau d'or>浮遊宮殿、尖塔<ラオデキア>の会議室にて。
現在任務就業義務のない、<珊瑚>、<星彩青玉>、<翡翠>の三つの騎士団頭領が召喚されていた。
情報管理局長からの報告によれば、本日未明、<Dragon d'argent>より一通の電信があった。その内容を確認したオペレータと責任者は、その内容のあまりの荒唐無稽さに首を捻り、また結論に愕然とした。
すなわち、<Taureau d'or>第七艦隊により我が艦船が襲撃されたというのである。それによって、当該艦艦長による公的な謝罪と政府による軍への干渉、そして賠償金の支払いを要求したものであった。
この要求に対する猶予は48時間以内。
既にうち13時間が経過してしまっていた。
混乱したのは<Taureau d'or>である。第七艦隊とは、既に壊滅している艦隊であり、その残骸の回収及び戦略的呪術兵器の使用までが判明している事件の被害者なのである。
無論、生存者は零。そうした艦隊からの砲撃によって襲撃された、と言われても、俄かには信じ難い。
「あちらの自作自演ではないのかね」
<翡翠>元帥が不機嫌そうな声で唸る。三人の頭領のほか、列席していた情報管理局長が書類をめくり、答える。
「いえ、<Dragon d'argent>から提示されました波動属性は、確かに我が第七艦隊のものだと判別されております」
<Dragon d'argent>とて、それくらいの予想はしていたのだろう。
電信の添付する形で、襲撃を受けた艦に残る記録データも含め、こちらに送信されていた。
「改竄の確率は」
「有り得ません」
局長の答えに対し、元帥は深いため息と共に背もたれに身を沈める。
「どうなっとるんだ……このようなこと、すぐには信じられるか」
「信じられないということは同感ですが、黙殺すべきではないでしょうな」
<星彩青玉>大将が、事実に対し否定的な立場から一転、積極的な姿勢を見せる。
「<Dragon d'argent>の動きは、どうなっている」
「現在、<Gegurah>-<Chesed>間のテス回廊終着地において軍隊集結の情報が入っております」
「……やる気、か……」
指を組み、その上に顎を乗せて大将は思いあぐねる。
「規模は分かるか」
「正確な数ではありませんが、推定される数値では、艦船大小問わず凡そ150以上と」
「くそっ!」
だん、と机に拳を打ちつけたのは、<珊瑚>大将。
明らかに、両者は混乱していた。だが<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>の両者を明らかに決定づける要因の一つとして、向こうには「破壊された戦艦」という具体的な証拠があるのだ。
それを抱えている以上、<Dragon d'argent>は強硬姿勢を崩さないだろう。
そうなれば、困るのはこちらである。
L.E.G.I.O.N.という不確定危険因子があるこの時期、<Dragon d'argent>と本格的な紛争勃発に発展する武力衝突は何としても避けたい。
だが、<Dragon d'argent>を納得させられるだけの手札が、用意できないのだ。
この場合、用意したくてもできないという事態は、思考を硬直させる。
「……直接の話し合いの場を設ける以外、手はないであろうな」
「話し合い、とは?」
<翡翠>大将の言葉に、<珊瑚>大将が質問する。
「衝突は避けたい、しかし弁明できる方法がない、となれば、それしか方法はなかろう」
「あちらは相当頭に血が上っているようだが……どうやってその場を設ける?」
次に質問したのは<星彩青玉>大将。
やや長い沈黙ののち、<翡翠>大将は意を決した一言を口にした。
「うちの騎士団をテス回廊から<Chesed>に送る」
「しかしそれでは……!?」
「<Dragon d'argent>が、バカ正直に自分とこの戦艦が撃沈されましたどうしてくれますか、って電信を送ったって、どうして信じられる?」
<翡翠>大将は、問題の視点の変更を行ったようであった。
「あちらさんが、こちらの弱みに付け込んでる可能性だって否定はできん。こちらとしても、毅然とした対応で対等外交に持ち込むのが最善の策と思われるが?」
それから数時間、さらに話しあいは行われたが、結局<翡翠>大将の提案以上の策を見出すことは出来なかった。
大将は<翡翠>騎士団の編成のため、一足先に会議室を後にする。
のちの時代、戦史に残る出来事まで、残り21時間の夕暮れ時であった。