第十章第二節<Corridor of Samekh>
秘教の海を、漆黒の剱が突き進む。
<Taureau d'or>中将セシリアの旗艦ニュクスを中心とした陣形を伴い、十二の艦隊が静かに闇を切り開く。
かつて人が思いを馳せ、運命を託した煌く星々。それらに包まれつつも、人々はいまだ見ぬ世界への扉を信じてやまぬ。
その行為を愚挙と笑うことは容易であろう。しかし、それは誤りでもある。
遥か太古より人々が思い描いた神々への祈り、言葉、護符などは、紛れもなくこの世界に効果を及ぼし続けたのであるのだから。そこに如何なる因果関係があるのか、そこまでを解き明かす技術はいまだ、ない。だが神々への供献は、確実に力を発揮するのであった。
「<港点>到達まで15分、象徴展開に入ります」
操縦士の言葉と共に、ニュクスのメインディスプレイが切り替わる。宇宙空間を映していた巨大な窓のようであったディスプレイに大きく表示されたのは、一枚の絵であった。
そこには、一人の天使が描かれていた。天使は羽衣のようなゆったりした長衣を纏い、そして両手には杯を一つずつ持っていた。不思議な事は、その杯に満たされていた液体は、一方から一方へ、まるで見えぬ力に導かれるように中空を横切って注がれていることであった。
川べりに佇むその天使は、胸元に大きな三角形の図形があった。あまりにもくっきりと、そして一つだけ描かれているそれは、まるで模様というよりも何かの象徴のようでもあった。
天使は注がれている水の流れを静かに見下ろしている以外は、全くの無表情。それはまさに、タロットカードの中の一枚の絵札であった。
「象徴展開、<節制>図案化完了」
「図案化完了、回廊への接続を試行します」
操縦士たちの声を聞きながら、一人沈思するセシリアの下へ、艦間通信が入る。アームレストにある通信回路を操作するパネルを開くと、パーソナルディスプレイが展開され、軍服姿のウーゲル中将の顔が現れた。
「どうしましたか」
「なァに辛気臭ぇ顔しやがってんだ、お前はよぉ」
スピーカーから漏れるほどに大きいウーゲルの声に、周囲にいた操縦士らが思わず振り返る。規律と秩序が美徳とされる軍隊において、その声はおよそお世辞にも相応しいと言える類のものではなかったからである。
「ウーゲル中将、言葉を慎んでください」
「固いこと言うなって。俺とお前は階級に差なんかねえだろうがよ」
「ですから、慎んでくださいとお願いを……」
そこまで言ってから、セシリアは新米の操縦士が笑いを噛み殺していることに気づいた。
だが、そこで羞恥のあまり怒鳴り散らすことをするような性格ではない。頬を少し赤らめたまま、セシリアはディスプレイをにらみつけた。
「ウーゲル中将、作戦行動中は言葉に……」
「お、赤くなった顔ってのも、また可愛いモンだなぁおい?」
「ウーゲル中将ッ!!」
たまりかねたセシリアは、手元にあるアームレストに掌を強く叩き付けながら声を張り上げる。だがそれは、ウーゲルの憎まれ口を制することはできたが、かえって注目の的となってしまうという副作用をも含んだ行動であった。
「悪い悪い、そう怒るなって」
ひらひらと手を振っているウーゲルに、セシリアはため息と同時に呆れた視線を向ける。
「だけどよ、お前の顔は随分とましになったぜ? さっきまでみてえな面してちゃ、どっちが新米だか分かりゃしねえ」
言われて、セシリアは口元に手をやる。無意識のうちに、思いつめたような顔をしていたのか。
「……申し訳ありません」
「おいおい、さっき言ったばっかりだろうが、俺たちぁ階級はおんなじなんだからよ」
「……そうですね」
ややあって、セシリアの口元にようやく微笑みが宿る。それを見たウーゲルもまた、無精ひげに覆われた口元をにやりと満足そうに歪めた。
「こっちのオペレータに寄越してたデータファイルがあったろ、それの編集作業が終わったからよ、今から転送するわ」
「お願いします」
セシリアの言葉が言い終わらないうちに、タロットカードの図案が表示されたメインのディスプレイに、新しく表示される画面があった。
これは指揮官だけが持っていていい情報ではないだろう。そう考えたセシリアは、通信スピーカーをプライベートモードからオープンに切り替える。ほどなくして、ウーゲルの声がニュクス全体のスピーカから響き渡った。
「今回の任務は活動可能領域<Iesod>の鎮圧にあるが、実はもう一つの任務が連絡された」
画面が一枚の写真に切り替わる。
遠隔撮影のためだろうか、焦点が著しくずれているために不鮮明な映像である。
「反<Taureau d'or>思想組織として活動を続けている奴等の中に、領内の難民を不法逃亡させている奴等がいるんだがよ」
その言葉に、セシリアは眉に皺を寄せる。
「その中に、難民に紛れて<Taureau d'or>の高級官僚が潜んでるらしい」
ウーゲルの一言で、事態は急速にきな臭くなってくる。
「高級官僚が……どうして?」
「疑惑が浮上しているのは、財務政務省幹部の一人だ。命令では、彼の捕縛さえできれば生死は問わぬとの方針だそうだよ」
「彼が何を握ってるっていうの」
「そんな核心の部分まで、下っ端の俺らに話してくれると思うか?」
「……そうね」
自嘲気味なため息とともに、セシリアはそれ以上の質問をやめた。
「今回のこと……要するに、私を厄介払いしておいて、汚れ仕事も押し付けようっていう、二重の意味のお遣いなわけね?」
「そういうこった」
ウーゲルは鼻を乱暴に擦って見せると、またにやりと笑った。
「まあ、たまにはいいんじゃねえか? 生死を問わない、ってんだから、やっこさんも相当な悪ってことよ」
「セシリア中将、ほどなく回廊転送地点です」
報告する操縦士に頷くと、セシリアはウーゲルに向き直った。
「そういうことだから、切るわよ?」
「了解した。首尾よくやろうぜ?」
最後にウーゲルの髭面がアップになり、通信は切れた。
眼前の光景は、先ほどとは何等変わりは無い。だが、領域内の特定のポイントには、<港点>と呼ばれる箇所がある。通常航行時には何も変わらない地点ではあるが、特定の回廊への転移を可能にするポイントであった。
都市における港を経由しない転移には、「象徴展開」と呼ばれるプロセスが必要になる。すなわち、回廊の一つ一つにはカバラ哲学的に充当された象徴と呼ばれる図式、事象、具物が存在する。それらを艦に搭載した魔術回路を通して起動させることにより、目標の回廊への転移を可能にするというわけだ。
これから<Tiphreth>から転移するサメク回廊のタロットの象徴である<節制>の図案は既に起動してある。
「転移態勢に入ります、総員対衝撃準備」
次の瞬間、ニュクスを緑色の閃光が押し包む。幾度か明滅を繰り返してから、突如艦の前方に出現した光の環に突き進み、そして消えた。
ニュクスの周囲を航行している船たちにも、同じような現象が起きはじめている。
膨大な質量の艦船を次々に飲み込んだ光は、最後の一隻を転移させると、まるで海凪のように、ひっそりと静まり返った。
第一部 完