間章Ⅸ<闇世界>
闇色をした部屋で、闇色をした男が静かに眼下を睥睨していた。
窓の外に見える空間と世界もまた、闇。凍てつく絶対零度の、致死の空間。真空領域という名のその空間にひとたび足を踏み入れれば、人は全身の血液を沸騰させて死に至ると聞く。
男は手を伸ばし、ふと眼前にそびえる分厚い透明な窓に触れた。透明度の高い、対衝撃フィルムを張られたその窓。至近距離からサブマシンガンを一点集中で撃ち続けても容易には破れないと聞くが。
もしこの窓を破り、外に出たとすれば、俺もまた命を落とすだろう。
それは、間違いのない真実。だが、俺が死んで、一体悲しむ人間がいるだろうか。
十日後に迫る、婚礼の儀。だがジェルバールの胸のうちは、重く深く淀んでいた。
王家の者同士の婚礼。その裏に隠されているのは、Chevalier同士の婚礼により、Chevalierの能力を持つ者を求める王家の打算であった。
婚礼すらも、そうした暗い思惑が絡んでいる、この世界。たとえ他者から声を掛けられても、それの裏を読み、縦横無尽に張り巡らされた罠を掻い潜りながらでなければ、あっという間に絡め取られてしまう。気を許せる時間というものはなく、常に神経を澄ませていなければならぬ世界。
王家と聞けば、労働もせずに遊び暮らしていると思われがちではあるが、決して世界の中の楽園などではない。地位、そして財への必要以上の欲のないジェルバールには、その世界は苦痛でしかなかった。
こつん、と拳を窓にあて、男は呟いた。若くして王家を捨てた、血を分けた弟に。遥か過去の思い出を、脳裏に思い浮かべながら。
男は黒い髪を後ろへと撫でつけていた。
広い額が露になっており、その下に光る鋭い眼光を宿した瞳はまるで禁欲僧のようでもあった。この男に正面から睨まれれば、意志の弱い人間であれば迫り来る威圧感に恐らくは躰が硬直してしまうであろうほどの気配。男が纏っている衣装は、ほとんどが黒く分厚い生地によって作られていた。ところどころに金糸による刺繍があるものの、それは装飾というよりも黒色の持つ存在感を高めるだけの調味料に過ぎない。詰襟から前合わせの上着は下へと伸び、やや外側に広がるような形で長い裾へとつながっている。腰を締めるベルトには、細身のサーベルの鞘が吊られている。その鞘もまた、黒。
男は静かに呼気を吐くと、その瞼を閉じようとする。
そのときである。
「失礼致します、ジェルバール卿」
闇の中から声が聞こえた。
この部屋は、元々が書斎として使われているものである。静かに陳列された書棚と分厚い絨毯が眠る闇から、男の声は聞こえてきていた。ジェルバールと呼ばれた男は、姿勢をそのままに、声には背を向けたまま、小さく頷いた。
「聞こうか」
「件の情報は、どうやら正確な様子でございます」
男の声に、ジェルバールは眉をひそめた。
「セシリア卿は現在、カルヴィス・ウーゲル中将とともに、治安維持警備軍としてサメク回廊より<Iesod>へと向かう予定となっております」
「ということは、刑が執行されたということだな」
「そうなります」
「彼女は、確かに王家の人間を殺したと思うか?」
ジェルバールの問いに、応える男の声がいささか遅れた。ややあって聞こえてくる声は、これまでのものとは違い、多分に迷いを含んだものであった。
「それにつきましては、わたくしでは判断をしかねるものでございますので……」
「いや、いい」
もともと、答えを期待した問いではなかった。自分ですら迷い、判断をしかねているのだ。
「……頼みがある、ドラート」
「何なりと」
驚くべきは、答えた声はそれまでの男とは違う声であった。
さらに低く、そして力強く響く声。
「最上位裁判審議の詳細を調べて欲しい……私はセシリアをよく知っている。あれは、不用意に人を殺すような女ではない」
「御意」
その言葉を合図に、部屋から二つ分の気配が消えた。ジェルバールは再び窓の外の宇宙に目を向けた。
「お前の選択は……正しかったのかもしれないな」