第九章第二節<The Belief>
妖魔の核となっていたのは、五十代の男性であった。撃退後、結界の中で簡単な浄化を済ませたのち、フィオラの手による祓でほとんどの怨念を浄化し終えてから、現在は隔離された部屋で眠っている。
ラーシェンもまた、放浪病再発を防ぐための祓を受けることにより、今回の妖魔騒動はひとまず落ち着いたかに思えた。
注連縄を張った祭壇から降りてきたラーシェンを、微笑みで迎えるフィオラ。黒い外套の裾を揺らしながら階段を下りるラーシェンは、フィオラに鋭い一瞥を向けた。
「一つ、聞きたいことがあるんだが」
「どうぞ、なんなりと」
だがその表情といい、語気といい、祓をしてもらった相手に対して適切と思われるものではなかった。
ラーシェンは次なる言葉を発する前に、周囲に視線を巡らせた。
そこは、収容していた難民たちの祓をも一括して行った、いわば急ごしらえの霊場であった。元々は集落の集会その他の寄り合いが催されていたのであろう、擂鉢上の広間である。天井はついてはいるが、現在では風雨から身を守ることくらいにしか役には立っていない。縦横に無数に走る亀裂は雨さえ防げぬであろうし、大きな地殻変動でも起きれば恐らく耐え切る事は不可能であろう。
分厚いが老朽化の激しいドーム状の広場の中央に聖域を張り、そこでFacultriceの能力を持つフィオラが祓を行ったのだ。
一見、呪術などにはまるっきり縁が無い様相をしていたヴェイリーズに祓ができることにも驚かされたが、やはり本職のそれは一味違った。まるで、最高の眠りから覚めた瞬間のような、瑞々しい活力が躰の隅々にまで感じることが出来る。
最高の眠り、などというもの自体、ラーシェンは経験したことがない。
だが、別の表現が思い当たらないのも事実だった。いわゆる不快感とされている感覚の一切が、躰から消失している。筋肉に感じる痛みも重さもない。躰を動かすこと自体、いや息をすること自体が心地いいものだと感じることなど、かつて感じたことさえあっただろうか。
しかし肉体的な心地よさは、ラーシェンの胸中にわだかまる黒い靄までをも払拭する事はできなかったようであった。
「お前たちの地下組織は、L.E.G.I.O.N.か?」
L.E.G.I.O.N.という単語に、周囲の人間の視線がラーシェンに吸い寄せられる。向かい合うフィオラは、しばし無表情のままラーシェンを見つめていたが。
ややあって、フィオラは高らかに笑い出した。
それがあまりにも大っぴらな笑いだったため、尋ねたラーシェンのほうが面食らってしまう。周囲にいたフィオラの船の乗組員たちも、まさか自分たちにかけられた疑いが突拍子もないことであったことを知って、拍子抜けしてしまったような顔をしている。
「何が可笑しい」
低い声には、幾分苛立ちが含まれている。その語感を感じ取ったのか、笑いを収めたフィオラは目尻に浮いた涙を拭い、そして答える。
「すみません、いくら地下活動とはいえ、L.E.G.I.O.N.に間違われたのは初めてだったもので……」
無言で、フィオラの返答を待つラーシェン。
「あなたは、私達の船をごらんになったのでしょう……あれしきの装備で、<Taureau d'or>第七艦隊を丸ごと壊滅させるなんてこと、到底出来るものではございません」
フィオラの言葉に、ラーシェンの瞼が大きく開かれる。その様子の変化に気づいたフィオラに、ラーシェンは震える声で問いかけた。
「第七艦隊……壊滅……だと?」
「おや、ご存知ではありませんでしたか」
フィオラは首を傾げつつ、事の次第を簡単に要約する。
「数日前、だったでしょうか……<Taureau d'or>の第七艦隊が消息を絶ったとの情報を傍受いたしました」
「生存者は」
「壊滅的な破壊であると聞いておりますので、生存者はごく少数でしょう」
「……そうか」
手摺を掴み、項垂れるラーシェン。
「……ここに来てすぐ、俺はヴェイリーズに話を聞いた。この組織が何をして、何を目指しているのかの話だ」
「そうですか」
微笑むフィオラ。だが、前髪の奥からラーシェンは鋭い視線を投げかける。
「同じ問いをされて、あんたはどう答えるんだ……フィオラ・マグリエル?」
「私たちが何を目指しているのか、でしょうか」
頷くラーシェン。ややあって、フィオラは顎に指を当てたままの格好で、そっと呟いた。
「私たちは、大きな流れの中で生きております。しかし残念ながら、大きな流れというものはえてして遅くゆったりと流れるもの。流れを阻もうと暴れる者がいたとしても、我等流れのほうが次第に道筋を変えていけば、狼藉者は徒労に終わるでしょう」
「……何が言いたい?」
「大きな流れの変革は、一人の人間の生涯ではなしえないもの。我等が目指しているのは、まさに幾世代にもわたる変革です」
たった一人の人間に変えられるものならば、覆すのは易しい。そんなもののために、生き急ぐことはないのだ。ゆっくりと、しかし確実に、流れを変えていけば。
それを聞き、ラーシェンは自嘲気味に、呟いた。
「なるほどな……まあ、あの若造よりはマシな答えか」
「理解していただけて何よりですわ」
肩をすくめて微笑むフィオラに、ラーシェンは改めて視線を向ける。
「それよりあんた、さっきの一撃は平気だったのか」
「さっきの……あぁ、妖魔の最後の攻撃ですね」
あのとき、自分が見た光景が間違いでないのなら、妖魔の爪は確実にフィオラを捉えていた。幅数メートルの路地を挟んで、対岸の建物の屋根にいたフィオラが、いつ、自分の側に来たというのか。
あの間合いと速度、そしてフィオラの反応からすれば、攻撃は回避不可能のはずであった。今でもラーシェンの脳裏には、迫り来る爪に対して驚き戦くフィオラの表情がはっきりと思い出される。
「あれは幻術の一種ですよ」
事も無げに、フィオラが答えた。
「紙で作った人型を触媒として、自分の分身を生成します。あれだけの傷を負った妖魔が、素直に倒れてくれるとは思わなかったもので」
「それで、分身をつくって攻撃を躱したってわけか」
「ええ」
分からない。だが、それもまた、Facultriceとしての力だということなのだろうか。自分の知らぬ理論に基づいた、技能なのであろう。
ラーシェンは足早に数歩を進み、フィオラの前を通り過ぎようとした。今は一刻も早く、例の第七艦隊壊滅の情報の詳細が知りたい。
だが過度の好奇心が、ラーシェンの足を止めた。
「最後に一つ」
「はい」
「妖魔を攻撃する俺に、あんたは方向の助言をしてくれた……あれはどういう意味がある?」
「世界は五つの力からなる、という思想から導きました」
妖魔は魔犬、すなわち犬は金畜と呼ばれ、金気を宿す。金属は火炎によって熱せられ、溶かされることから、金気を封じるには火気が有効となる。
「金気を減ずる火気を宿す方角は南。妖魔の正面を北に見立てれば、あの位置からの攻撃は妖魔にとって最大限の効果を持つ一撃になりましょう」
まるで意味不明な単語の羅列ではあるが、一つだけ分かったことがある。自分が戦闘の法則を経験則で生み出すのと同様に、フィオラもまた一定の理論に基づいて世界を捉えようとしているのだと。
「……邪魔したな」
「いえいえ」
フィオラの笑顔に見送られ、ラーシェンはメイフィルの待つ避難収容所へと向かうべく、広間をあとにした。