第九章第一節<Beast>
酒場の人間に混じりながら、外へと転がり出るラーシェン。
鼻に感じたのは、夜の冷気と怒号と悲鳴、そして禍々しい血臭。妖魔、との叫び声の元を確かめる必要は無かった。ちょうどラーシェンが往来へと駆け出した瞬間、二回目の咆哮がびりびりと鼓膜を震わせた。
あまりに強烈な音量を、しかも至近距離で浴びたラーシェンには、既にそれが音声などではなく、衝撃波にも似た物理現象となって躰の芯を揺さぶる。その付随効果として、人の波のあちこちから常軌を逸した叫びが上がる。妖魔の声に込められた、恐慌と混乱をもたらす精神領域に浸食する魔力の生贄となった者たちだ。
咆哮が轟いた方角へと振り向いたラーシェンは、一瞬、足が竦んだ。
Schwert・Meisterとして数多の修羅場をくぐってきたラーシェンでさえ、足を止めさせるほどの妖魔。その巨躯は、優に数メートルは超えたものであった。巨大な灰色の毛皮を纏った猟犬。それが深紅の瞳で人々を睥睨しつつ、四肢を広げたその態勢で、牙の間からぼたぼたと肉片を滴らせている。
あまりに禍々しいその姿。
一瞬の遅滞をおいて、ラーシェンは左腕に装備した携帯式のVAを起動する。目的は、妖魔の検索であった。周囲に漂う怨念とその体躯を構成する因果律から、妖魔の種別を特定するアプリケーションが画面を表示。
<分析終了 妖魔タイプ確認 NorthernEurope系列 種族名称 冥界番犬>
画面を一瞥し、ラーシェンは小さく舌打ちをした。妖魔の系列が大きく変化している。活動可能領域自体が変化している以上、妖魔の出現系列もまた変化していてもおかしくはない。
それ自体には、何の不思議も無い。だが、今のラーシェンのVAには、たった一つの戦闘アプリケーションしかインストールされていないのだ。
検索画面の下に、赤い文字で大きくNo one was suitable for the typeの文字が点滅している。
妖魔系列への該当アプリケーションなし。その事実に、ラーシェンは唯一のものである<三神一体>を起動する。
「ラーシェン!」
そのとき、腕にすがりつくような勢いで店の中から追いかけてきたメイフィルが駆け寄ってくる。
「メイ、こいつに他のプログラムは入ってないのか」
「……ごめんなさい、そんなに早く妖魔と戦うなんて思ってなくて……」
メイフィルの言葉を証明するように、VAが警告音を発する。
アプリケーション 三神一体 NorthernEurope系列への予測稼動効果率 16%
今回の戦闘は、VAに頼ることができない。
予測稼働率が30%を下回っているならば、実質的な効果は皆無に等しいのだ。曰く、妖魔を構成する霊的因子の波長が、アプリケーションによって生み出される神力と合致しない場合に起こる現象であった。
だが困難はそれだけではない。一般人が密集している集落の中での戦闘という、特殊な状況である。
「くそッ……」
VAの電源を落とすラーシェンの傍らで、声がしたのはそのときである。
「タイプが違いますか」
聞き覚えのある声だった。確かあの時も、ラーシェンは彼女に気づくことが出来なかった。
「……フィオラ」
あのときと同じ格好で、フィオラもまた眼前で猛り狂う妖魔を見上げている。
「VAがなくたって、俺はやれる」
「ええ、貴殿の腕を疑っているのではありませんわ」
フィオラは真剣な眼差しで、吼え猛る妖魔を見つめつつ。
「ですが、ここは集落の中……戦闘時間の延長は、そのまま犠牲者の数の増加に繋がります。一刻も早い妖魔の除去を行わなくては」
「なるほど」
ラーシェンの傍らで、妖魔の咆哮に震えながらも袖を掴んで離さないメイフィル。その横顔に宿る意志の片鱗を感じ取ったのは、ラーシェンではなく、フィオラであった。
「メイ、お前もあいつらと一緒に逃げろ。ここはもうすぐ戦場になるぞ」
「いや、いやです」
頭を振るメイフィル。頑ななまでの拒否は、しかしメイフィルの意固地さによるものではなかった。
今回のVAのミスの一端は、自分にある。なんとかしてその責任を取らなければ。
痛いほどに迫る、自分の力の存在証明に足掻く姿。
「すぐにインストールを始めれば、30秒で……」
「いらん」
「ラーシェン!!」
まるで自分を捨てた恋人に追いすがるほどの悲痛な声を上げるメイフィル。その声無き悲鳴に助け舟を出したのは、フィオラであった。
「それでは、お嬢さんには一つ、仕事をお願いしようかしら」
潤んだ瞳を向けてくるメイフィルに、フィオラは薄い紙片を取り出し、かざした。
墨汁と言われる稀少品で綴られた文字。もっぱら呪術師らが媒体に使うとされている、符と呼ばれる品であった。
フィオラのように己が力を直接的に発現させるFacultriceとは異なり、魔術師や呪術師というのはこうした魔力を導き出す媒体を用いて各種魔術を行使する。杖、錫、宝玉などが一般的とされている媒体の一つである符の作成には、外見からは予想もつかぬほどの時間と手間がかけられている。紙片、墨汁、筆記用具はそれら全てが呪符作成のためだけに用意されなければならず、またそれらは作成に際して聖別と呼ばれる儀式によって清められなければならない。作成する部屋と道具を聖別したとしても、呪符を実際に筆記する術者には相応の修行期間が要する上に、一定の呪力を所有する者の証とされる許可証が求められる。
こうして作成された呪符が相応の呪力を宿すことは言うまでも無いが、稀に闇市に出回ることがある。いつ、誰によって作成されたのかも分からぬ呪符が信じられない高額で取り引きされることは想像に難くないであろう。標準的な闇市の相場でも、辺境惑星の役所に勤める公務員の三年分の年収がつくというのだから、人々がどれだけその神秘なる力に惹かれているかがわかろうというものである。
差し出された呪符を見て、驚きに目を丸くするメイフィル。
「私たちは、これから妖魔との戦闘に集中しなければいけない……避難した人たちを大きな屋内に集めて、この呪符で結界を張ってもらえるかしら」
メイフィルは自分の役割を、自分だけの立ち位置を探している。そのことを一目で看破したフィオラによる説得は、まさに効果的といえた。
やや躊躇いつつも、呪符を受け取ったメイフィルは意志に満ちた視線で頷き、そして逃げ惑う人々の群れに飛び込んでいった。その後姿を見やりつつ、ラーシェンは太刀の鞘をそっと撫でる。
「……Facultriceのくせに、呪符を持っているのか」
「万が一の保険ですよ」
フィオラは妖魔を見やりつつ、そう呟く。
「……まあ、メイを説得してくれたことには礼を言う」
「説得だなんて」
肩をすくめ、フィオラは瞳を閉じた。
「あの娘は自分の力を、あなたに認めて欲しがっています……しかし今のままでは、いつか精神が崩壊しますよ」
ラーシェンがその言葉の真偽を問う前に、フィオラはとん、とヒールのまま大地を蹴った。まるで浮遊補助装置でもつけているかのように、羽毛の如き動きで廃屋の屋根へと跳躍したフィオラは、ひたと妖魔を見据える。
「Schwert・Meister殿。貴殿の太刀の銘は」
「<雷仙>」
短く応えるラーシェンもまた、高く跳躍して酒場の屋根へと上る。返答を耳にしたフィオラの眉が、僅かに潜められた。
「無礼を承知で申し上げます、その太刀の御力……この度はお使いになりませぬよう」
何故だ、と問おうとした、そのとき。
妖魔がこちらの気配を感じ取った。ぐるりと向き直り、四肢を踏ん張る攻撃態勢。数メートルはあろうかという巨躯による突進攻撃を受ければ、まず間違いなく防禦は役に立たない。
家屋を踏み倒してこちらに猪突してくる妖魔に対し、ラーシェンは抜刀。
だがフィオラの言葉に従うならば、太刀の力を使うことは出来ない。太刀の力を使うとは、意識を直結させて特殊な技法を繰り出すことを意味する。気を練り、気で裂く戦いならば、太刀の力を使っていることにはならぬ。
鼓膜を破裂させるほどの咆哮が響き渡り、ラーシェン一人に対して強い指向性の魔力が放たれる。
裂帛の気合を喉から吐き出し、それを打ち消すラーシェン。咆哮によって神経系統の一時的な麻痺を生じさせたと思い込んでいる妖魔は、態勢を低くしたまま捕食の欲求をそのままに牙を閃かせた。
眼前に広がるその血塗りの牙を、ラーシェンは奇妙にも緩慢な映像として見ていた。妖魔発現と同時に、もしくは先ほどのような恐慌を催させる咆哮に躰を縛られた犠牲者の血。妖魔が捕食を確信したそのとき、ラーシェンは流水の如き一歩を踏み出した。酒場の屋上と妖魔の牙、その一メートルほどの間隙に身を滑り込ませ、受身を取りつつ妖魔の躰の下へと移動。
完全に前傾姿勢になっているため、現段階では前肢による追撃は不可能だ。そのまま太刀を肩に担ぐように構え、疾走を続けながら妖魔の腹部を斜めに切り裂く。
まるで天を砕くかと思われるほどの声が上がる。
「そのまま裏へ! 左右どちらかからとどめを与えてください!!」
フィオラの声が聞こえてくる。
その言葉に、何の意味があるのかは分からぬ。だが、Facultriceとしての能力を有する以上、何の意味も無い即断的な導きであるとは思えなかった。
そして、ラーシェンは声に従った。
腹部の裂傷を与えつつも加速。太刀の刃は鈍色の毛皮を裂き、ぼたぼたと黒ずんだ血液が降り注ぐ中を走り抜け、ラーシェンは左へと軌道を変えた。
妖魔は積層怨念による擬似生命体だ。生命体としての基本構造がどこまで忠実に再現されているのかまでを考えた事はないが、左つまり心臓の部位を狙う動きをしたのは、最早反射であった。
閃く刃が左後肢に深い傷を与え、バランスを崩したところに頭上を横に一閃。今度こそ、致命傷を与えたという手ごたえがあった。太刀の柄を握る指に、ぶちぶちと何かを切り裂く感触が伝わってくる。その動きを止めることなく、そして倒れる妖魔の下敷きにならぬように横へと横転し、酒場の屋上から跳躍する。
そのときであった。
妖魔の狙いが、既に自分にはないことを、ラーシェンは気づいていなかったのだ。
断末魔の苦悶に身をよじりつつ、瞳に捉えているのはフィオラ。明らかに肉体戦闘では劣るフィオラを道連れにせんと、妖魔が前肢を横に薙いだ。
「逃げ……」
鋭くは無いが、命中すれば人間の躰など一瞬で切り裂かれるであろう速度と質量を兼ね揃えた攻撃。それは、ラーシェンの警告よりも早く、立ち竦むフィオラを捕捉した。
「見事です」
すぐ傍らで、今しがた吹き飛ばされんとしていたフィオラの声がした。
はっとなるラーシェン。見れば、妖魔の爪で刻まれているのは、人型をした大きな紙片。
「あれは……」
「午より戌へ。見事な金剋火の体捌きでございました」
身をよじる妖魔は、次第に火を噴きながら萎縮していく。黒く変色した肉の塊が、まるで単細胞生物のように蠕動し、そして内側に何かを護るように包み込む。歩み寄ったラーシェンが太刀の切っ先で切り裂くと、どろりとした粘液に濡れながら、一人の中年男性が蹲ったままごろりと姿を現した。
まるで胎児のようなその姿に、フィオラが呟く。
「密航者のようですね。彼が核になって、妖魔を生み出したのでしょう」
その言葉に、ラーシェンは思わず反応した。
目の前で気を失っているのは、どう見ても傭兵稼業や荒くれ仕事には縁の無い男である。そんな人間が、妖魔の核になるほどの怨念をどうやって蓄積するというのか。
「怨念は何も妖魔を斬ることだけで憑かれるものではありません」
念の蓄積は、あらゆる実生活上で起きる可能性を秘めている。ただ、通常の生活では、怨念が妖魔となるだけの濃度に達することが難しいだけなのだと。
「祓をしましょう。収容を手伝ってくださいますか」
フィオラの申し出に、ラーシェンはぱちんと太刀を鞘に納めた。