終章
遠くに祝砲の音が聞こえている。
見上げる空は、気象調節機構により、完璧なまでな快晴だ。雲ひとつない碧天に散る白煙は中空で無数の紙吹雪となって、舞い飛ぶ自動撮影衛星がそのたびに軌道を修正する。
吹き抜けてくる風には、初夏の香ばしい香りがした。
そんなうららかな空気の中、小走りになって走る一人の少女がいた。
身に纏った豪奢なドレスは、およそ衣服としての機能よりもどれだけの服飾が施せるかといった部分に職人が腕を競った結果ではないかと思わせるほどの過剰装飾であった。裾は床を擦るほどに長く、またそこに至るまでには無数の装飾布を重ねて作られ、緩やかな弧を描いている。
色彩は純白で統一され、そして胸元や絹手袋に包まれた指先を飾る宝飾は全て銀製である。
髪を高く結い、そして掲げられた虹銀のティアラは、女王だけが着けることが出来る至高の品。
それらを身に纏っているのは、イルリック・ブルーアヴローであった。
「姫……お待ちください、どうか!」
「ごめんなさい」
後ろの石段を、息を切らせて上って来る初老の男に、イルリックは本当に申し訳なさそうな顔で振り向いた。
「式典には絶対に遅れないわ、だから、少しだけ……一人にさせて」
「ですが、姫」
「それに、私はもう姫ではないわ」
引き締まった声に打たれ、初老の男は身を竦ませる。
「……今日だけ、許してね」
微笑みながら会釈をしつつ、イルリックは回廊を曲がる。
背後から追いかけてくる足音が途絶えたことに安堵の溜息を漏らしながら、しかしイルリックは笑みを隠せずにいた。
正面の回廊を歩いてくる男には、見覚えがあったのだ。
詰襟の上着、そして金糸の刺繍、黒地に赤の多重剱陣紋様。腰に吊った儀礼杖を光らせ、銀髪を後ろに撫で付けた男は、イルリックを見るとその場に膝を折った。
「お久しぶりでございます、イルリック王女」
「……顔を上げてください」
その声は、先刻のものとは全く違っていた。
「今日の、この時間だけは……どうか、お願いします」
男が纏っているのは、緋紋近衛と呼ばれる守護騎士団の礼服。それに身を包んだクレーメンス・ライマンが顔を上げると、そこにはかつての口の悪い、<Dragon d'argent>八咒鏡師団を担うFaculteurがいた。
全てが以前と変わらず、というわけにはいかなかった。限界を超えた呪殺戦闘の後遺症として、クレーメンスの左目はその光を失っていた。しかし、それが彼の本質を違えることにはならぬ。
「ようやくサマになったじゃねえか」
「おかげさまで」
イルリックは、肩の力を抜いて微笑んだ。
「本当に……この日が来たんですね……」
深い感慨を胸に、イルリックが柱の向こうに広がる青空を見やる。
「Sabret et Beche……『剱と鋤』、なんてね」
聞き慣れた声がまた、回廊の奥の暗がりから聞こえてくる。
「あなたが治めるに相応しい、あなたらしい名だわ、イルリック」
現れたのは、胸元が大きく開いた黒いドレスを着たフィオラ・マグリエルと、顔の上半分を覆う白と蒼の仮面を被ったリルヴェラルザ・スワローゾであった。
「名は体を表すって言うわ……きっと、素晴らしい女王になるでしょうね」
「安堵はまだ早い」
賛美の言葉を口に微笑むフィオラの傍らで、表情を隠したままのリルヴェラルザが諌めた。
「本当に、イルリックの理想が実現するかどうかは、これからにかかっているのだ……今気を抜いてはどうにもならん」
「まあいいじゃねえか」
軽い口調でリルヴェラルザの箴言を流し、クレーメンスは首を鳴らしてみせる。
「今日は祝いの日だ……そんなときに堅苦しいことをいうヤツは……」
「お前は、たまには堅苦しいことの一つでも言うがいいさ」
今しがた、イルリックが小走りになって通ってきた廊下から、二人の女性が姿を現した。
一人は長身を紺色のスーツに固め、胸元には黄金の勲章を吊るしているニーナ・ジュエルロック。
もう一人は、金髪を揺らしながら優しい面立ちを湛えている、セシリアであった。
「これで……全員揃ったな」
クレーメンスの言葉に、誰もが頷いて見せた。
<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>、二つの国家機構が消失し、またカバラ世界が消え去った今、民衆は新たな為政者を求めていた。
搾取と権力闘争に明け暮れるだけの、見せ掛けの平穏に安寧せぬ、賢者と称されるべき為政者を。
その任を受けたのは、イルリックであった。
剱と鋤、それはまさに権力と民衆とが互いに手を取り合って理想郷を目指すという、イルリックの願望が色濃く現れた名であった。
そして彼女は、かつての戦友を自分の臣下として招き入れることにした。
しかしそれは、旧態依然とする馴れ合いを求めてではない。死地を潜り抜けていたからこそ、腹を割って言い合える仲間を欲してのことであった。
クレーメンス・ライマンならびにフィオラ・マグリエルは、緋紋近衛騎士団に。
ニーナ・ジュエルロックは呪務管理局長に。
リルヴェラルザ・スワローゾは三冠鷲騎士団頭領に。
セシリアは、人権保護監査院長に。
そのどれもが、軽んじられぬ責務を伴った、重要なポストたちであった。
最早、交わす言葉は必要なかった。
これからは、手を取り合い、共に歩んでゆけるのだ。
何者にも代え難い仲間と。
一際大きな祝砲が大気を震わせる。
式典までは、あと半時間。
「……そろそろ、時間だな」
リルヴェラルザの言葉が、現実を告げる。
悲しむことはない。
憂えることはない。
何故なら、自らを支えてくれる友は、すぐ近くにいるのだから。
六人は、祝砲を合図に、踵を返し―――
それぞれの未来へと、一歩を踏み出しはじめていた。