第五十章第二節<Light ball>
<Kether>と<Tiphreth>とを結ぶ回廊、ギメル回廊。
メインモニターには、突入時に展開した象徴である、タロットカードの二番、女教皇が映し出されていた。
艦の外側を流れていくのは、見慣れているはずの光の回廊。
呪電嵐を抜け、渦を巻く雲海を駆け、そして象徴展開によって回廊へと転送したとき、やっと一行は肩の力を抜いた。
当初は信じられなかった。何故なら、<Kether>守護者よりもたらされた警告は、彼等の帰還を不可能であるとしていたのだから。
しかし象徴展開からの回廊転送が成功したことにより、これで帰還できるという願望が彼等の間に膨れ上がっていた。
写本の喪失、L.E.G.I.O.N.とシャトーの壊滅、そして九朗の言葉。どれが原因かはわからない。しかし、望みはつながった。
操縦士らからも、不穏な報告はない。
ここにきて、ようやく六人の胸中には深い安堵が訪れていた。
目を閉じれば、すぐに温い闇の泥濘へと沈んでいってしまいそうな疲労が、思考を鈍らせていた。
今すぐにでも熱いシャワーと清潔なシーツにくるまって、柔らかいベッドに身を横たえたい、という渇望が身を苛むほどにこみ上げて来る。
そして、今ではそれが、とてつもなく有り難かった。もし、あれこれと考えを巡らせられる余裕があったとしたら、きっとこの戦いのことを回想してしまうに違いない。
幾年にも渡る激戦と冷戦、そして<Taureau d'or>と<Dragon d'argent>という、二つの国家勢力の鬩ぎあいの狭間で、どれだけの命が散り、苦悩が生み出されていったことか。
今や、そのどちらもが存在してはおらぬ。
全てはL.E.G.I.O.N.の、シャトーの、そして写本という禍津神に操られた、滅びの舞踏会だったのだ。
その中で、誰もが夢を見ていた。自分こそが世界の、そして力の頂点に立つことができると信じながら。
無知蒙昧なる者たちは、しかしその権力の汚泥を飲み込み、肥え太った躰が倒れるときに、数多の者を巻き添えにしていった。
彼等の悲痛な声もまた、禍津神の糧になっていたのだろうか。
セシリアは、それ以上の思考を脳が拒否することに同意した。
彼女の隣には、もう誰もいないのだから。足掻いてもがいて、そしてやっと手を届かせた相手は、もういないのだから。
きっと、ラーシェンを失った痛みは、あとからやってくるのだろう。
大きな傷を負ったとき、すぐには痛みを感じないのと一緒だ。
躰は、その痛みが耐えられるようになるまで、神経を遮断するのだろうか。
何故、と問われれば、答えは一つだ。
何よりもまず、生きるために。
どんなに追い詰められても、突き落とされても、躰は命ある限り生きようとする。
泣くのは、あとにしよう。
今は、無理にラーシェンのことを思い出そうとしても、涙すら出てこない。
それはたぶん、自分の頭の中が精一杯だからだ。
もしくは、生きるための力を使い果たしてしまっているのだろうか。
どちらにせよ、今はそのことを考えるべきではないよ、と言ってくれているような気がした。
そうだね。セシリアは誰にともなく頷き、そして微笑んでみた。
お疲れさま、セシリア。
もう、フォレスティアという名前には何の意味も無い。恐らく、人々の記憶の中には、忌まわしき為政者の像とともにしばらくは残るだろう。そのたびごとに、嫌な思いをすることになるだろう。
しかし今日からは、私はフォレスティアの呪縛を抜ける。それこそは、セシリアが幼少期からずっと、願って止まないものであったというのに。
代償はあまりに大きく、そして代え難いものとなった。
「セシリア」
名を呼ばれ、顔を上げる。すぐ目の前には、やつれた顔をしたフィオラが立っていた。
「ありがとう」
「え……?」
予想していなかった言葉に、セシリアは呆気に取られた顔のまま、フィオラを見上げていた。
「最後のあなたの行動がなかったら、私たちはきっと、誰かが命を落としていたわ……うぅん、下手をしたら全員が殺されていた」
シャトーの魔術が消え、L.E.G.I.O.N.全員が解放されたあの瞬間。
L.E.G.I.O.N.ほどの戦闘能力があれば、たとえ一瞬といえど、殺すことは充分に出来た。その一瞬の絶望を救ったのは、セシリアの弾丸だった。
あの一発がなければ、事態はもっと最悪なものになっていただろう。
「だから、ね? ありがとう」
どういたしまして。
セシリアは微笑み、そして手を伸ばそうとした、そのとき。
「師団長、警戒警報です!!」
その絶叫で、ブリッジはにわかに騒然となった。
一難去ってまた一難か。
「何が起こった!?」
「回廊壁面の力場定数に変化が起きています、このままでは回廊が……!」
「くそッ」
クレーメンスは頭痛のする頭をかきむしる。ここまで来て、ここで、俺たちはやはり死んでしまうのか。
「速度を上げろ、何としても……」
「……師団長」
クレーメンスの血走った瞳は、シートを立ってじっとこちらを見上げる操縦士の、悲しげな表情を捉えた。
「崩壊速度からの相対時間では、回廊終焉まで辿り着くことは不可能です」
それはすなわち、打つ手が無いということ。
どう足掻いても、程なく自分たちの艦は回廊の外の虚空に投げ出されることになる。
回廊の外が一体どのような領域なのか、それについての情報はない。死出の旅路につく者のように、操縦士の覚悟は沈痛なものであった。
「……そうか」
起こしかけた躰をシートに戻し、クレーメンスは額に手を当てた。
こんなにも呆気ない幕開けとはな。微笑みがこみ上げて来る中、クレーメンスは唇だけを動かした。
「今まで、ご苦労」
鼻の奥がつんとする。
だが指揮官たるもの、涙など見せられるはずが無い。
自分の不甲斐なさと力不足に、情けない思いが押し寄せる。
今はこうさせていてくれ。もしこの手を外したら、俺は涙を見られてしまう。こいつらが俺に命を預けてくれたというのに。
「もう……」
そのときだった。
クレーメンスの左手に、そっと添えられる女の手があった。
はっとして、隣を振り返るクレーメンス。その傍らに微笑んでいるのは、ニーナだった。
「悪いな、あんたの恋人とかじゃなくてよ」
鼻で笑って見せ、そしてニーナはにやりと笑った。
「……なんてな。お前、写本の最後の言葉……覚えてねえのかい?」
クレーメンスは、涙に潤んだ瞳を隠すことすら忘れ、ニーナの顔をまじまじと見つめる。
この女は、一体何を言っているのだ。
「写本がこの世界からいなくなったあと……どうなるって話、忘れちまったのか?」
刹那の沈黙。
そののち、モニターに光が弾けた。
回廊を構成していた呪力の筒が、一斉に結合を解かれ、そして分散していく光景だ。
それはただ、美しかった。何にも喩えようのない、そして誰も見たことのない、滅びの美しさだった。
「生命の樹を象った哲学者の庭園は姿を消し、無知なる者を惑わせる迷宮はその力を失うだろう……その言葉の意味は、これじゃないのかい?」
写本<隻眼の龍>の喪失により、世界は変質する。
矩形の世界であった壁は破られ、そこは広漠たる空間となる。
カバラの魔術図形であった、生命の樹を模した世界は、たった今、この瞬間に失われ。
そして世界は、境界を消し去ったのだ。