第五十章第一節<Illusion in the sky>
幾つの回廊を駆け抜け、幾つの広間を横切っただろうか。
足を踏み入れたときには、気が遠くなるほどに広大で、かつ剣呑な場所に感じられたこの鉄鎖の城も、行く手を阻む者がいなくなった今は違っていた。
六人は、ただ黙って走っていた。
何かに駆り立てられるように、そして何かを振り切るように。
帰路の過程で、彼等は幾つかの躯を目にしていた。二人のSchwert・Meisterは折り重なるようにして斃れていた。ジェルバールと守護を担うS.A.I.N.T.の躯の近くには、信じがたいほどに崩れた肉塊があった。どれもが、恐らくはクレーメンスが駆けつけるよりも以前に刃を交え、そして終焉を迎えていたのだろう。
それらを目にしても、六人は走り続けた。時折止まっては息を整え、そしてまた走る。
全員が決して軽くはない怪我を負ってはいるものの、彼等は走ることを止めなかった。
その足が、やっと止まる。
誰もが荒い息に肩を上下させ、そして身を屈め、壁に手をつき、口中の乾いた唾を飲み込み、そして見た。
辿り着いたのは、最初の広間。
ここで倒れていた龍牙炎帝は、L.E.G.I.O.N.の扮した偽者だったのだ。
数多の想いが沸き起こる中、彼等の足は動きを止めた。
視線の先には、巨大な鉄の扉。
ここを抜ければ、城から出られる。
それなのに、誰一人として、その場を動こうとはしない。
彼等は思い出したのだ。この城が、どのような場所にあるのかということを。荒野の只中に打ち込まれた、尋常ならざる楔に固定された、鉄鎖の上に鎮座しているということを。
そして、満身創痍となった今の躰では、あの過酷な鎖を降り切れる自信がないのだ。
吹き荒ぶ風と、不規則に揺れる鎖の織り成す輪舞曲は、踊り手をいとも簡単に舞台から振り落とすだろう。
この難関を前に、どうすればいい。女性たちの表情から心中を察したクレーメンスは、一人微笑むと前へと進み出た。
「……何してんだ、行くぞ?」
「でも、この先は……」
イルリックの声が震えている。
あの高さと風、そして鎖の動きからなる揺れは、恐怖を覚えさせるには充分すぎた。
あの場所をもう一度通ることは、絶対にいやだ。
たとえそこしか道がなくとも、彼女は首を縦に振ることはないだろう。
しかし、クレーメンスは無言のまま扉へと歩み寄る。鉄の扉の前まで来ると、くるりと背後に向き直る。
「……クレーメンス?」
その動きに首を傾げるニーナ。
自分はともかく、セシリアやイルリックといった者に、ここを下るのは無理だ。そう、口にしようとしたとき。
「お前たち、俺がどうやってここに来たと思ってやがんだ?」
クレーメンスは掌を強く、扉に打ち付けた。
生じた間隙から吹き込んでくる突風。思わず顔を庇い、腕の隙間から扉の向こうに現れた何かを見やる彼女等の顔は、一瞬驚愕に凍りつき、そして次には予想外の展開に笑みがこぼれていた。
鎖が結び付けられていたキャノピーのすぐ目の前には、八咒鏡師団の戦艦が停泊していたのだ。
六人を乗せ、鉄鎖の城を離れた戦艦<石凝姥神>を初めとする三隻の艦船は、みるみる城を離れていった。
<Kether>成層圏に達した艦隊を待っていたのは、荒れ狂う呪電嵐であった。呪式で構築されていない、そしてひとたびは指向性を担わされた呪力が行き場を失い、また命令を奪われ、全てを破壊しつくす暴嵐となって天空を覆っていた。
分厚い雷雲はその懐の中に放電現象を繰り返し放ち、まるで雷帝の杖の如き一撃を無差別に放っている。そこここに点在する呪力渦は既存の呪術を簡単に打ち消し、そして新たな力を吸収してさらに増大する。
その地獄絵図のような光景を目の当たりにした五人は、ただ口を開けて見守るしかなかった。操舵技術に乏しい彼等は、八咒鏡師団がこのような場所を戦場として、残存艦隊と交戦していたことを思えば、操縦士ならびにクレーメンスの状況把握能力にはただただ舌を巻くだけである。
「師団長、探査結界が維持できません!」
悲痛な叫びが耳を打ったのは、そのときであった。操縦士の一人が、血相を変えて振り返り、画面に表示された絶望的な状況を一言で表現する。
探査結界によって回廊転送点を予想し、象徴展開によって回廊へと転移する。
活動可能領域間移動の基本操作であるそれが封じられ、加えて有視界領域はほぼ皆無。
「かまわねえ、このまま象徴を展開しろ!」
メインモニターにタロットカードの図案が表示されるも、船外に構築された魔力はたちどころに呪電嵐に呑まれ、吸収され、雲散霧消する。探査結界が消失するということは、周囲に点在しているはずの数々の危険領域の認知が不可能であるということだ。
船の規模と機動力を考えると、目視による航行など、目隠しをしたまま人込みを歩くのも同じだけの危険を伴う。地上からはただの曇天に見えた<Kether>上空は、剣呑な呪的気象結界によって覆われていたのだ。
ここさえ抜けられれば。歯痒さを堪えきれず、クレーメンスは操縦席のコンソールに拳を打ちつける。
そのときだった。
不吉な震動がブリッジに襲い掛かる。
あまりに唐突なその衝撃に、鳴り響く警戒警報。
「どうした!?」
「左舷に呪力渦抵触……現在なおも浸食中!!」
「莫迦野郎、さっさと離脱……」
そこまで叫んでおいて、クレーメンスは言葉を切った。悲しげな面持ちの操縦士が、クレーメンスの瞳をじっと見つめていた。
「……申し訳ありません」
その言葉は、痛いほどにクレーメンスの心を抉る。
離脱しようにも、その先にはさらに大規模の渦や嵐が潜んでいるかもしれないのだ。
勘に頼るだけでは、操舵はできぬ。安請け合いのできぬ仕事を担う操縦士は、ただ静かな諦観の色を瞳に宿すことしか出来ない。
「……申し訳……」
「師団長、右舷九時の方角に識別信号確認です!!」
操縦士が頭を垂れたそのとき、まったく予想だにしていなかった報告が耳に飛び込んでくる。
莫迦な。
今、この宙域にいる艦船は自分たちだけのはずだ。
それとも、この嵐に紛れ、憑依機龍を見逃していたのか。
恐怖と焦燥に顔面から血の気の失せるクレーメンス。
しかし次の瞬間、操縦士の報告は耳を疑わせた。
「識別信号、天叢雲剱師団艦隊……ジークルド師団長の船です!」
その言葉を耳にしたとき。
クレーメンスの心は、既に決まっていた。
「艦隊に連絡、全艦九時方角へ最大戦速移動、同時に象徴を展開せよ」
「師団長……!?」
操縦士の狼狽は当然であった。未確認の情報に頼るなど、そのような危険な行為はできかねる。
否、操縦士の免状を取るためのシミュレートで、そのような行為は厳重に注意されているはずだ。
「ジークルドが、俺らを騙すと思うかよ?」
操縦士の抗議の声に、クレーメンスは穏やかな表情で振り返った。
「あいつはな、俺のことを、師団長に推薦してくれた先輩なんだぜ?」
そんな男が、敵であるはずがない。
どうせ、このままここに停泊していても、遅かれ早かれ命を落とすのだ。無闇に動き回るより、機材の故障だとしても、その信号の方向に向かうことのほうが、まだましであるように、彼には思えていた。
「……ですが……」
「やかましい、責任は俺が持つ……連絡しろ、全艦最大戦速だ」
「……了解しました。各艦に通電、最大戦速、目標九時方向」
操縦士の連絡と同時に、ぐんとブリッジが揺れる。
しかし今度の揺れは、呪電嵐による震動ではなかった。
モニタ-に映し出された不吉な雷雲がたなびき、一瞬にして後方へと流れていく。この速度でもし、何かに突入していったとしたら、先刻の衝撃など比べ物にならないほどの被害を蒙ることになる。
もしそうなれば、十中八九、生きて戻ることはできない。
そして。
数分後、正面には満天の星空が浮かんでいた。
それは、クレーメンス艦隊の生き残りの三隻が、無事に呪電嵐を潜り抜けたことを、同時に意味していた。