第四十九章第三節<Black Coffin>
銃声は、一つだけだった。
フィオラとクレーメンスの魔術を受けたシャトーの後頭部を後ろから撃ち抜いたセシリアは、無表情のままであった。
ゆっくりと前のめりになって、そして左手を吊られたまま、どぅと床に伏せる。人間である彼の躰に施されていた自己修復の魔術も、脳を破壊されてはどうすることもできなかった。
同時に、耳を聾せんばかりの絶叫が響き渡る。
自分たちを殲滅しようと飛び掛ってくるL.E.G.I.O.N.は、その悉くが術者を失い、暗黒の闇に囚われていたのだ。
唐突に空中に出現した冥府の闇は、無数の触手を伸ばしてL.E.G.I.O.N.らを束縛する。腕を、足を、胴を、首を捉えられ、成すすべも無くずるずると引きずりこまれていく。彼等が剱を振り回そうと、魔術で薙ぎ払おうと、不定形の触手はその度に散り、即座に新たな闇となって纏わりつく。
最後の一人が闇に飲まれ、部屋に異様な静寂が戻るまでに、然程時間はかからなかった。
写本を包む光の護りがゆっくりと薄れ行く中、最早誰にも戦うための力は残されていなかった。
頭の中だけが異常な興奮状態にあったが、躰はもう言うことを聞かなかった。
誰もがぐったりと座り込み、あるいは壁にもたれたまま、疲れ切った顔で写本の光を見つめていた。
「……終わった……か?」
口の中に溜まった血唾を吐き出し、クレーメンスが誰にとも無く呟く。
その言葉は頼りなくか細かったが、長い戦乱の終止符となるには充分すぎた。
クレーメンスは溜息を一つつくと、頭を壁に預けた。魔力の過剰放出による痛みを意識の外へと押し遣り、頬を伝う血を拭う。指に絡んだそれを、爪弾くように飛ばしてから、クレーメンスは急激に意識を食い尽くしてくる睡魔の誘惑に屈しようとした、そのとき。
「まだだ」
厳かな口調で、写本が答える。
その言葉に、疲弊しきっていた六人の意識が覚醒する。
まだ、とは何を意味するのか。
これよりも先に、倒すべき相手がいるということか。それとも、戦乱はいまだ続くということか。
だがどちらにせよ、自分たちはもう戦うことはできない。
指一本動かすことすら、今はままならぬ。
「まだ、終わりではない」
きぃ。
何かが軋む甲高い音が、何処からともなく聞こえた。
視界を満たす写本の光が僅かに陰ったと感じられたと同時に、それは生じた。まるで空間を切り裂く刃が走ったかと思わせるような、漆黒の亀裂が生じたのだ。
それは薄暗い部屋の中では目視することすら困難な微細なものであったが、光が満ちるこの部屋ではくっきりと見ることができた。
横方向に、床と平行に生じたそれは、両端から下方向へと成長する。さらにそれは緩やかな鈍角をもって、左右対称に、斜め下へとすぼまるようにさらに延びる。縦に長い六角形を構成したそれは、矩形の空間がずるりと崩れ、そして漆黒の艶消しの立体が浮かび上がる。
否、それは柩であった。
一切の装飾のない、黒一色の柩は、見る者に恐怖を与えるものであった。床から数センチほど離れ、空中にて静止するその柩から感じられる魔力は、L.E.G.I.O.N.らにも負けることの無いほどの濃密なものである。
「……く……ッ」
クレーメンスが、力の入らない足を殴りつけ、よろめきながらも呪力を呼び起こす。
「待て」
戦う意志を見せたクレーメンスを、写本は短く制した。
「あれは敵ではない」
漆黒の柩の中にいる何者かが、敵ではないと。
にわかには信じ難いものではあったが、現状ではそれを受け入れるしかなかった。誰一人、満足に戦える者などいない状況において、敵が現れたとしたら、自分たちは本当に成す術もなく倒されていくしかないのだ。
六人の、十二の瞳が見守る中、柩の蓋が開いた。
中に満たされていた闇が、形を成して床に降り立つ。
ばさり、と黒いコートの裾が広がり、そして短く髪を刈った男が現れた。踝まで達するほどの長いコートを纏った男は、部屋の中を一瞥し、そして柩に向き直った。
「おいで」
「はい」
応えたのは、少女の声。
男に促されて闇から生まれたのは、男と同じ黒衣を纏った、しかし年端も行かぬ少女であった。
奇妙な二人連れは、写本の光を直視したのちに、かつて激戦が繰り広げられていた部屋を見回す。そして倒れこむように、そして蹲るように躰を投げ出している、傷ついた六人を認めると、そこでやっと顔の緊張を解いた。
「遅かったのだな」
「訓練に時間がかかったのだ」
男は写本の言葉に答えると、少女の背中を押した。促された少女は、一歩前に進み出るも、どちらを向けばいいのかを迷い、あちこちを見回した挙句、その立ち位置のまま、頭を下げた。
「初めまして、異界の戦士たち……私の名はジェシカ・ウィンターズ。シャトーと彼の生み出した十二の魔族を打ち倒してくれたこと、誠に感謝いたします」
知っているのか。
だが、この少女は自分たちのことを、異界の戦士と呼んだ。その言葉が意味するものは、ジェシカと名乗った少女は、自分たちのこの星団世界とは違う世界の住人だというのか。
そして、言葉を読み解けば、この少女の世界もまた、写本とL.E.G.I.O.N.の脅威に晒されていたのだろう。
「いえ……私たちは……」
言い淀むフィオラの言葉に、ジェシカは首を横に振った。
「私の王国は、彼等の害毒を受け、滅びかけました……彼等は王国だけでは飽き足らず、あなたたちの世界にまで……」
俯くジェシカの傍らを過ぎ、男は写本の光に手を伸ばした。
かつて、何者にも触れることすら許さなかった写本は、男の手を受け入れた。指に光が吸い込まれるようにして弱まり、ふわりと台座を離れ、男の手の中に納まる。
「あなたは?」
写本を受け入れた男に、イルリックが問う。弾かれたときの衝撃で口の中を切ったのか、唇の端には血が滲んでいた。
「我が名は壬生九朗」
ぐっと手を握り締め、九朗と名乗った男は振り向いた。その瞳孔が一瞬だけ、深紅に染まったように見えたのは錯覚か。
「写本は俺が預かる。この世界の結界は既に破られた」
結界とは、<Kether>のことか。L.E.G.I.O.N.が消失したとはいえ、この世界から安息の地が失われてしまったことだけは確かなのだ。
「写本が失われたことで、この世界は変わるだろう」
九朗は天蓋を見上げ、詩を暗誦するかのように口ずさむ。
「生命の樹を象った哲学者の庭園は姿を消し、無知なる者を惑わせる迷宮はその力を失うだろう」
九朗は柩に向き直ると、こちらを一度だけ振り向いた。
「戻れ、お前たちの世界へ」